公武合体と幕政反対

表記について
概要
阿部正弘の協調政策以降、朝廷と雄藩の干渉で政局は混乱しました。幕府の地盤沈下は深刻でした。井伊直弼が凶刃に倒れた後、安藤信正は朝廷との融和「公武合体」で地盤強化を目指しました。薩摩藩は独自の「公武合体」を考え、勅命を背景に幕政介入してその中心になろうとしました。一方、長州藩は「幕政反対」で敵対しました。

公武合体と幕政の大改革

政局の混乱と安定の模索

1860年、大老井伊直弼桜田門外の変で暗殺されました。
朝廷の権威増大や薩摩さつま藩など雄藩ゆうはんの幕政介入で政局が混乱する中、老中安藤信正のぶまさが幕政の中心となり、次の3つに取り組みました。

安藤信正

品不足と物価高騰

貿易が日本の輸出超過のため、国内は品不足と物価高騰に陥りました。
1860年、安藤信正は物価抑制を目的に五品江戸廻送令を発令しました。
西洋諸国や輸出に関わる商人の反対で、五品江戸廻送令は効果があがりませんでした。

五品江戸廻送令

攘夷運動の頻発

貿易に対する反感から攘夷運動が展開し、次の出来事が起こりました。

東禅寺事件

公武合体の推進と行き詰まり

1861年、安藤信正は公武合体を姻戚いんせき関係で実現しようと、孝明天皇の妹和宮と14代将軍徳川家茂を政略結婚させました。
政略結婚は、尊王攘夷そんのうじょういを説く一部の者から激しく非難されました。

徳川家茂
1862年、坂下門外の変
政略結婚に憤激した者らが安藤信正を襲撃した事件
負傷した安藤信正が老中を辞職し、公武合体は行き詰まり
政略に翻弄された女性―和宮
安藤信正は、朝廷への融和政策として皇女の将軍降嫁こうかを推進しました。朝廷も、幕府の攘夷決行を条件に降嫁を承諾しました。和宮はすでに有栖川宮ありすがわのみや 熾仁たるひと 親王と婚約していましたが、年齢の点で白羽の矢が立ちました。江戸に着いた和宮には、波乱が待ち受けていました。言語・慣習の違い、天璋院との不和。条件の攘夷決行は実現せず、幕府が朝敵になると、新政府総裁の熾仁親王と敵対しました。和宮の死後、遺品から若い男性の写真が見つかりました。一説には、家茂とも熾仁親王とも言われています。

文久の改革

1862年、公武合体が行き詰まる中、薩摩藩主の父島津久光は、幕政介入を試みました。
島津久光は慣例を破り、兵を率いて入京して、朝廷に幕政改革を迫りました。
改革の勅命ちょくめいを受けた島津久光は、江戸へ向かって幕府に改革を要求しました。
島津久光
前藩主島津斉彬なりあきらの弟で、藩主島津忠義ただよし の後見人として実質的な藩主

島津久光
幕府は要求を受け入れ、文久の改革と称される次の改革を図りました。

人事と役職の新設

越前藩主松平慶永よしなが
大老に相当する政事総裁職に就任
一橋ひとつばし徳川慶喜
将軍の補佐役将軍後見職に就任
会津あいづ藩主松平容保かたもり
無力化した京都所司代の上位職京都守護職に就任

松平慶永

その他

西洋式軍制の採用
参勤交代緩和(3年に1度で在江戸100日)

攘夷運動と反幕府の激化

攘夷運動と英国の対日政策硬化

折からの攘夷運動に加え、次の出来事でイギリスは対日政策を硬化させました。

生麦事件

攘夷運動と尊王攘夷論の変質

攘夷運動は、幕政反対も加えた尊王攘夷論を展開し始めました。
幕政反対も加えた尊王攘夷論を主張する一派は、尊攘派と呼ばれました。

思想の展開

攘夷と幕政反対からの武力行使

1863年、尊攘派の藩士は京都に集まり、朝廷を動かすため尊攘派の公家と結びました。
1863年、長州藩は朝廷を動かし、将軍を京都に迎えて攘夷決行を迫りました。
幕府は、「1863年5月10日付」での攘夷決行を諸藩に命じました。
1863年5月10日、長州藩は下関海峡を通過する米・蘭・仏の船を砲撃しました。

砲撃されたフランス船
また、尊攘派は幕政反対に次の武力行使をおこないました。