労働運動の始まり

表記について
概要
歴史の展開につれて、人々は土地・工場・道具などの生産手段(資本)をもつ少数と、生産手段をもたない多数に分かれました。少数は多数を賃金で雇い、生産手段を動かす労働力として使いました。この関係が世に浸透した状態を資本主義と呼びます。資本主義の成立当初は、賃金や労働環境が悪く、労働者の不満を募らせる一方でした。

労働問題

賃金労働者の増加

工場制工業の発達で、賃金労働者が増加しました。

工場労働者数の増加

女性労働者

工場労働者の大半は、繊維産業に従事し、また、女性でした。
繊維産業に従事する女性労働者は、女工工女)と呼ばれ、多くが出稼ぎに来た小作農の子女たちでした。

1901年の製糸業の労働者
女工(工女)は、寄宿舎に住み、劣悪な労働環境の下、長時間を低賃金で働きました。
例えば、紡績業では、2交代制の昼夜業がおこなわれ、製糸業では、労働が約15時間、時には18時間に及びました。

女工の労働時間

男性労働者

重工業の男性熟練工の数は限られ、工場以外では鉱山業や運輸業で多数の男性労働者が働いていました。

労働環境の報告

日本の産業革命期の労働状態は、次の本が報告しています。

『日本之下層社会』の挿絵

労働運動と社会問題

労働運動の起こり

日清戦争頃、工場労働者は、待遇改善や賃上げを求め、労働を一時的に停滞させるストライキをおこない始めました。
1897年、アメリカの労働運動に学んだ高野房太郎は、片山せんらと労働組合期成会を組織し、労働組合結成を促しました。
労働組合期成会中の鉄工1000余人による鉄工組合や、日本鉄道矯正会きょうせいかい が組織され、熟練工を中心に労働者が団結して資本家に対抗し始めました。

高野房太郎

片山潜

日本初の公害事件

1891~1907年、足尾鉱毒事件
古河市兵衛いちべえが経営する、栃木県の足尾銅山精錬所の鉱毒が、渡良瀬わたらせ 川流域の農民・漁民に被害を与えて問題化した事件
被害地の住民の訴願は警官に抑えられ、1901年には、元衆議院議員田中正造しょうぞう が天皇への直訴じきそを試みて失敗
事件は被害地の住民の集団移転で決着

足尾銅山

足尾銅山の位置

強制移住を迫られる谷中村の村民

遊水池化された谷中村の形
真の文明の探究者―田中正造
田中正造は、1890年の第1回衆議院議員総選挙に当選し、国会で足尾銅山精錬所の鉱毒問題を何度も取り上げました。しかし、内閣は積極的な鉱毒対策をおこなわず、死を覚悟した正造の天皇への直訴も失敗に終わりました。経営者の古河は、示談金による住民の訴えの放棄、鉱毒の沈殿を目的とした谷中村 やなかむら の遊水池化を計画しましたが、正造とその説得を受けた住民は、居住を続けて抵抗しました。正造の死と抵抗への弾圧で、鉱毒問題はその後も解決せず、村が遊水池化されてもわずかに鉱毒を減らしただけでした。

アメとムチの政策

アメ

1911年、工場法公布
工場労働者保護のため、資本家に経営上の義務を課す法律
第2次桂太郎内閣の時に公布
最低年齢12歳、労働時間12時間、女性・年少者の深夜業禁止を義務化
不徹底な内容で、15人未満の工場に不適用、期限つきで14時間労働を許可
資本家の反対で、実施は1916年まで延期(第2次大隈重信内閣の時)

ムチ

1900年、治安警察法公布
台頭する社会主義・労働運動などを抑えるため、労働者の団結や女性・未成年の政治集会参加を禁止した法令
第2次山県有朋やまがたありとも内閣の時に公布
社会主義
計画的な生産と富の均等配分で、貧富の格差消滅を目指す思想
労働組合結成の動きが衰退し、1901年、労働組合期成会は消滅しました。

組合結成と衰退