大正政変

表記について
概要
元号が「明治」から「大正」へと移った頃、日本を取り巻く国際環境は激変しました。1910年の韓国併合や1911年の関税自主権の回復など、明治以来の諸懸案が解決をみました。心機一転の大正時代の最初を飾ったのは、第一次護憲運動・大正政変でした。藩閥が解体し、国家を主導するものが政党・官僚・軍へと多元化しました。

軍拡の要求と時代の転換

多方面からの要求と伝家の宝刀

第2次西園寺公望内閣|1911年8月~1912年12月

1911年、国家財政の悪化の中、第2次西園寺公望さいおんじきんもち 内閣が成立しました。
西園寺公望内閣は、次の方面から財政に関する要求を受け、困難に立たされました。

陸軍・海軍の軍拡要求
*前:草刈り(財政整理)する西園寺
*後:勝手に杭を打つ陸軍・海軍
西園寺公望内閣は、陸軍拡張よりも海軍拡張を優先しました。
陸軍およびその巨頭である山県有朋やまがたありともは、2個師団増設を強く求めました。
西園寺公望内閣は、師団増設を財政上の理由から拒否しました。
陸軍大臣上原勇作ゆうさくが、単独で辞表を天皇に提出しました。
西園寺公望内閣は、陸軍が上原勇作の後任の陸相を出すことを拒否したため、軍部大臣現役武官制を守れず、1912年に総辞職しました。

上原勇作

時代の転換

新時代の到来

1912年7月、明治天皇の死去に伴い、大正天皇が即位しました。
天皇の最高顧問元老の山県有朋は、大正天皇の内大臣兼侍従長に、長州出身で陸軍の長老である桂太郎を選びました。
元老
憲法に規定されていないが、天皇を補佐して首相の選任権を掌握

大正天皇

天皇の在り方

大日本帝国憲法下での天皇の位置づけには、統一見解がありませんでした。
1912年、東京帝国大学教授美濃部達吉みのべたつきち が、『憲法講話』を刊行し、国家という枠の下に天皇を位置づける学説天皇機関説を唱えました。
天皇機関説は、憲法解釈の定説として支持されました。
天皇機関説
国家が天皇の上にあり、たとえ天皇でも憲法に従うとする説
天皇主権説
国家が天皇の下にあり、天皇は憲法の制限を受けないとする説

美濃部達吉

天皇機関説

天皇主権説

民衆の力と政治意識

大正政変

第3次桂太郎内閣|1912年12月~1913年2月

元老らの間で、次の首相に桂太郎の名があがりました。
内大臣兼侍従長の桂太郎が首相に就任することは、宮中と政府(府中)の境界を乱すと非難されました。
立憲政友会の尾崎行雄ゆきお立憲国民党犬養毅いぬかいつよし に民衆が加わり、次の2つを訴えて倒閣を目指す運動第一次護憲運動を始めました。

尾崎行雄

犬養毅

尾崎行雄の弾劾演説
桂太郎は、批判の原因「元老の後ろ盾を得た政治」を止め、支持母体となる新たな政党の結成を進めました。
立憲政友会・立憲国民党が、内閣不信任案を議会に提出し、それを支持する民衆が議会を包囲しました。
1913年2月、内閣は50日余りで退陣しました。
退陣に追い込んだ一連の動きを大正政変と呼びます。
桂太郎の支持母体に、加藤高明を総裁とする立憲同志会が結成

寛容な内閣の登場と退陣

第1次山本権兵衛内閣|1913年2月~1914年4月

海軍大将山本権兵衛ごんべえが、立憲政友会を与党に内閣を組織しました。
山本権兵衛内閣は、次のことを実施し、軍部・官僚に対する政党の影響力を強めました。

山本権兵衛
1914年、ジーメンス事件
海軍がドイツの会社に軍需品納入を独占させ、謝礼として代金の一部を受け取ったことが、別の不正とともに露見した事件
この事件は、海軍出身の山本権兵衛に対する非難を招き、内閣を退陣させました。

ジーメンス事件
*山本の乗る内閣丸が座礁

民衆に人気の内閣

第2次大隈重信内閣|1914年4月~1916年10月

元老らは、民衆の非難による内閣の退陣をみて、民衆に人気のある大隈重信を次の首相に起用しました。
1914年、大隈重信内閣は立憲同志会を与党に内閣を組織しました。
1915年の総選挙で立憲同志会が圧勝し、2個師団増設案は議会を通過しました。

第12回総選挙