田沼意次の政権

表記について
概要
10代将軍徳川家治は、田沼意次を側用人、老中と栄進させ、その手腕・開明性に期待しました。意次は、経済活動の活発化を幕府財政の再建の活路と考え、正統的で当を得た政策を進めました。しかし、政策に伴う商人の富獲得は、自然災害で不安定になった民衆の不満を増大させ、意次の贈収賄疑惑を浮上させる隙を生んでしまいました。

田沼時代

田沼時代の成立

1760年、9代将軍徳川家重いえしげの後、10代将軍に徳川家治いえはるが就任しました。
1772年、田沼意次たぬまおきつぐ側用人 そばようにん から老中となり、幕政の実権を握りました。
意次が幕政の実権を握り、財政の再建に臨んだ時代を田沼時代と呼びます。

徳川家治

田沼意次

商業奨励による財政再建

商人・職人の仲間を広く公認して株仲間増加させました
そして、公認の代わりに営業税運上冥加みょうがを課すことで財源を増加させました。
銅・鉄・真鍮・朝鮮人参などを幕府の専売とし、直営の施設を設置

貨幣統一による商業円滑化

秤量しょうりょう貨幣である銀貨を計数貨幣化することで金貨に連結しようとしました。
1772年に鋳造された、金2しゅと等価の南鐐 なんりょう二朱銀が有名です。

南鐐二朱銀
*表(左)・裏(右)

蝦夷地の調査・開発と長崎貿易

蝦夷地えぞち の調査で、ロシア人との交易の可能性や進出への対処策を探ろうとしました。
また、蝦夷地の産物「干しあわび・いりこ・ふかひれ」などにも注目し、長崎貿易でこれらを俵物として清に輸出し、金銀の獲得を目指しました。
仙台藩の医師工藤平助の著書『赤蝦夷風説考』を参考に、最上徳内もがみとくない らを蝦夷地に派遣しました。

蝦夷地

干し鮑

いりこ

ふかひれ

新田開発

印旛いんば 手賀てがの干拓を進め、新田開発を試みました(利根川の洪水で挫折)。

印旛沼・手賀沼

同時代の朝廷


竹内式部

田沼時代の終焉

1782年からの天明の飢饉は社会不安を増大させ、全て田沼意次の責任にされました。
1784年、意次の子田沼意知おきともが江戸城内で佐野政言まさことに刺殺されました。
強まる非難に意次は追い込まれ、1786年の徳川家治の死後、老中を罷免ひめんされました。
佐野政言…刺殺後、偶然米価が下落したため、民衆は彼を「世直し大明神」と評価