明治時代④(明治の内閣)

表記について

明治の内閣

*与党…政権側の政党
内閣 *与党 事項
1885.12~ 1885
内閣制度
1888
枢密院設置

枢密院議長に就任して首相交代

薩長藩閥政府
伊藤博文
1888.4~ 1889
大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
資格は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男性
*全人口の1.1%

条約改正交渉の行き詰まり、大隈重信の負傷で首相辞任

黒田清隆
1889.12~ 1890
第1回衆議院議員総選挙
民党が過半数占める
【第一議会(1890.11~1891.3)】
内閣
軍拡予算を主張
*国境…主権線、朝鮮…利益線
民党
「政費節減」「民力休養

議会運営に苦心し、閉会後総辞職

1891.5~ 1891
大津事件
来日中のロシア皇太子が負傷
【第二議会(1891.11~1891.12)】
内閣VS.民党
樺山資紀海相の蛮勇演説で紛糾 初の衆議院解散
第2回総選挙
内相品川弥二郎の選挙干渉
【第三議会(1892.5~1892.6)】

選挙干渉の非難、民党優勢をうけて総辞職

松方正義
1892.8~ 【第四議会(1892.11~1893.2)】
天皇の勅書(建艦詔書)により海軍軍備の拡張に成功
【第五・六議会(1893.11~1894.6)】
1894
甲午農民戦争
日英通商航海条約
関税以外の平等化
日清戦争
1905下関条約

大隈重信の入閣に失敗して総辞職

伊藤博文
(元勲内閣)
自由党
1896.9~ 進歩党 1897
官営八幡製鉄所設立
貨幣法施行
金本位

自由党・進歩党が提携を拒否したため総辞職

松方正義
(松隈内閣)
1898.1~ 1898
自由党・進歩党が地租増徴に反対して憲政党結成

地租増徴案否決で総辞職

伊藤博文
1898.6~ 憲政党 1898
尾崎行雄文相の共和演説事件

政党内の分裂で総辞職

大隈重信
(隈板内閣)
1898.11~ 憲政党(一時支持) 1898
地租増徴案成立(2.5%⇒3.3%)
1899
文官任用令改正
1900
治安警察法公布
衆議院議員選挙法改正(直接国税15円⇒10円)
軍部大臣現役武官
北清事変
1900.9
伊藤博文と憲政党が提携して立憲政友会結成

憲政党が離反し総辞職

薩長藩閥政府
山県有朋
1900.10~ 立憲政友会 1901
社会民主党結成、直後禁止
日本初の社会主義政党

貴族院の反対に苦慮し総辞職

伊藤博文
1901.6~ 1901
北京議定書
1902
日英同盟協約
1904
日露戦争
1905 ポーツマス条約条約
日比谷焼打ち事件
1905
第2次日韓協約
韓国の外交権の接収

日露戦争の戦後処理後に総辞職

桂園時代
桂太郎
1906.1~ 立憲政友会 1906
日本社会党結成(翌年禁止)
鉄道国有法公布
1907
ハーグ密使事件
第3次日韓協約
内政権の掌握

財政策の失敗と社会主義取締りに対する批判で総辞職

西園寺公望
1908.7~ 1908
戊申詔書発布
地方改良運動展開
1910
大逆事件
韓国併合
1911
日米通商航海条約
関税自主権の回復
工場法公布(1916 施行)

長期政権への反対、政策実行の成果が出たとして総辞職

桂太郎
18911.8~ 立憲政友会 1912
明治天皇没
上原勇作陸相が帷幄上奏

陸軍が陸相の後任を推薦せず、総辞職

西園寺公望

戦前の政治の用語

超然主義
1889年の黒田清隆首相の演説、政府は政党の動向に左右されず政府案を遂行
首相の選任方法
初期は薩長閥が交互に首相に就任、1892年以降は元老が首相就任・選任
元老
憲法規定外の存在で、首相選任などをあずかった人
民党
非政権で薩長藩閥政府に反対した政党の総称(⇔吏党)、用語の使用は日清戦争後まで
与党
政党員の一部が政権(内閣)に関わる政党の総称(⇔野党)
予算案の審議
衆議院で反政府の政党が多数だと否決されやすい=内閣の敗北