ヤマト政権は、663年、唐・新羅の連合の前に大敗を喫しました。この敗北を大きな契機に、ヤマト政権は中国に倣った法体系を整備するなど、支配体制の見直しを急ぎました。支配体制は、天武天皇によってさらに強化されていきました。天武は国史の編纂で支配の正当性を主張し、また、「天皇」「日本」号の使用を開始したとされます。

敗戦と体制の見直し(斉明天皇~天智天皇の代)

史上初の重祚

孝徳天皇の死後、退位した皇極天皇が再び即位(重祚ちょうそ)して、 斉明 天皇となりました。

皇極天皇から斉明天皇へ

蝦夷の帰順

658年、日本海側の 蝦夷えみし を帰順させるために、 阿倍比羅夫あべのひらふ が秋田・津軽方面に派遣されました。
比羅夫は北方の蝦夷を従えることに成功しました。
蝦夷
ヤマト政権の進出に抵抗する東北地方の人々の呼称、『宋書』倭国伝に載る「毛人もうじん」のことか!?

阿倍比羅夫の水軍

半島の情勢変化と百済の再興支援

660年、唐・新羅の連合軍が 百済 を滅ぼしました。
ヤマト政権は、百済の再興支援をすることで、朝鮮半島への影響力を回復できるかもしれないと考えました。
斉明天皇は軍を率いて出兵しました。

百済の滅亡

ヤマト政権の出兵(赤丸は熱田津)

従軍した額田王の和歌
斉明天皇が九州で没したため、 中大兄皇子 が即位せずに天皇の代わりを務めて(称制)、軍の指揮を引き継ぎました。
称制
役割は摂政に近いが、践祚の場合は天皇が不在
663年、 白村江の戦い 
ヤマト政権が唐・新羅の連合軍に敗れた戦い
唐・新羅の追撃の恐れから、ヤマト政権は体制の再編強化を急ぎました。
668年、唐・新羅の連合軍が高句麗を討滅

ヤマト政権の対外防衛

白村江の戦い後、次の①~④の対外防衛が整えられました。
百済の亡命貴族が技術指導して築城
②③
九州にあった朝廷の出先機関「大宰府だざいふ」の防衛が目的

対外設備の配置

水城の断面

大野城跡

基肄城跡

中大兄皇子の正式な即位

668年、中大兄皇子が正式に即位して、 天智天皇 となりました。

天智天皇の和歌

支配体制の再編と強化

白村江の戦い後、対外防衛とともに支配体制の再編強化が目指されました。


天皇の権威強化(天武天皇~持統天皇の代)

皇位継承問題と中央集権化

672年、 壬申の乱 
天智の弟 大海人皇子 と子 大友皇子 が皇位をめぐって争った内乱、大海人皇子の勝利で終結
大海人皇子が宮都 飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや で即位して 天武天皇 となりました。
大友皇子側の豪族が没落、また、武力による大王の地位獲得で、大王の権威が高まった、つまり中央集権化が進行しました。
内乱の際の要所に、三関さんげん(鈴鹿関・不破関ふわのせき愛発関あらちのせき)を設置

対外設備の配置

天皇と日本の成立!?

天武は国史を編纂して、支配の正当性を強化しようとしました。
その際、自身の称号を「天皇」、ヤマト政権の国号を「日本」としたのでしょうか!?
伊勢神宮での皇祖神「天照大神」の祭祀はこの頃に開始!?

銭貨の鋳造

天武は、日本で最初の銭貨である 富本銭 を鋳造させました。
流通は極めて限定的で、実際は厭勝銭えんしょうせん(まじないの銭)に使用されました。

富本銭

身分秩序の再編

カバネと実情の乖離かいり(かつて氏ごとに賜与された姓≠現実の氏ごとの優劣)
684年、 八色やくさカバネ 制定
姓と実情の乖離に合わせて姓を再編した制度
姓を上から順に、真人・朝臣・宿禰すくね忌寸いみき道師みちのし・臣・連・稲置いなぎに再編

八色の姓の必要性

天武の諸政策の引継ぎ

天武の死後、皇后が即位して 持統天皇 となり、政策を引き継ぎました。
大王(天皇)などが住む「宮」の区域と、条と坊による区画で構成される都

藤原京