自由民権運動は、1874年の民撰議院設立の建白書に始まり、1890年の帝国議会の開会で一応の終結を迎えました。以降、言論の戦いは、主な舞台を議会に移しました。日清戦争前までの第一議会から第六議会は、一般に初期議会と呼ばれます。初期議会は、予算案をめぐる内閣(政府)と反政府政党(民党)との対立で紛糾し続けました。

内閣と衆議院の対立

第1回総選挙

 黒田清隆 内閣|1888年4月~89年12月

1889年、 衆議院議員選挙法 公布
翌年の総選挙に備え、大日本帝国憲法と同時に発布された選挙法
選挙資格は、満 25 歳以上・直接国税15円以上納入の男性
北海道・沖縄県は除外され 謝花昇じゃはなのぼる 沖縄県民の参政権獲得運動を展開

総選挙の様子

第一回総選挙
公布の一方で、 黒田清隆 首相は、政党・議会の考えに左右されずに、独自の立場を貫く政府(内閣)の政治姿勢 超然主義 を表明しました。
超然主義
予算・法律は議会の同意なくして成立せず、この姿勢は後に挫折

黒田清隆

予算のフローチャート

第1次山県有朋内閣|1889年12月~91年5月

1890年、第1回 衆議院議員総選挙 
日本最初の総選挙で、かつての自由民権運動の担い手たちが大勝
投票率は約94%であったが、有権者の総数は全人口に対して1.1
 民党 と総称される反政府政党の立憲自由党・立憲改進党が、議席の過半数を獲得(政府支持政党を 吏党りとう と総称)
立憲自由党
旧自由党が再結成した政党で、1891年に再び「自由党」と改称

第一議会|1890年11月~91年3月

第1次山県有朋内閣|1889年12月~91年5月

第1次 山県有朋やまがたありとも 内閣の時、第1回帝国議会(第一議会)が開かれました。
超然主義の立場をとる山県有朋内閣と民党は、予算案について次の対立をしました。
内閣:ロシアの南下に備えた主権線(国境)と利益線(朝鮮半島)の防衛に、陸・海軍経費増強が必要
民党:無駄な職・経費を削減する 政費節減 と、浮いた財源で地租などを軽減する 民力休養 を主張
山県有朋内閣は、民党である自由党の一部を買収・説得し、予算を成立させました
利益線
軍事上の利益(国家の安全)を指し、朝鮮半島は対ロシアの防波堤

山県有朋

主権線と利益線

第二議会|1891年11月~12月

第1次松方正義内閣|1891年5月~92年8月

第1次 松方正義まつかたまさよし 内閣の時、第二議会が開かれました。
民党が軍艦建造費を含む松方正義内閣の予算案に反対し、これに対して、海相樺山資紀かばやますけのりが政府擁護の演説蛮勇ばんゆう演説で応じて紛糾しました。
妥協できない松方正義内閣は、初の衆議院解散におこないました。
蛮勇演説
「薩長政府と非難して予算案に反対するが、日本の安全は薩長のおかげ」

松方正義

樺山資紀

第2回総選挙

第1次松方正義内閣|1891年5月~92年8月

1892年、第2回衆議院銀総選挙
日本最初の衆議院解散後に実施された総選挙
内相 品川弥二郎やじろう が選挙の不当な妨害 選挙干渉 をしたにも関わらず、民党は多くの議席を獲得して優勢(政府支持の吏党は劣勢)
選挙干渉
被選挙人に対する買収や警察動員による恐喝で、死傷者多数

品川弥二郎

第三議会|1892年5月~6月

第1次松方正義内閣|1891年5月~92年8月

第三議会は、民党による予算の反対や選挙干渉の責任追及で難航しました。
責任をめぐって内閣で内部対立が生じ、第1次 松方正義 内閣は総辞職しました。

内閣と自由党の接近

元勲総出の内閣

第2次伊藤博文内閣|1892年8月~96年8月

第2次 伊藤博文 内閣は、明治維新に貢献した政治家(元勲げんくん)を擁した「元勲総出そうで」で組閣され、元勲内閣とも称されました。

伊藤博文

第四議会|1892年11月~93年2月

第2次伊藤博文内閣|1892年8月~96年8月

第2次 伊藤博文 内閣は、第四議会において、次の方法で海軍軍備の拡張に成功しました。
自由党
立憲自由党は、1891年に再び「自由党」と改称

第五・六議会|1893年11月~94年6月

第2次伊藤博文内閣|1892年8月~96年8月

立憲改進党は、かつて吏党の立場であった国民協会などと連合しました。
連合は、条約改正の交渉を一部改正案で進める内閣を非難して、全面改正案での交渉を主張し、対外硬派連合と呼ばれました。
条約改正などの外交をめぐり、第五・六議会でも内閣との対立を続けました。

主な政党の推移
議会 内閣 対外的な出来事 外交担当 交渉の内容
岩倉具視
(1872年)
改正の予備交渉に臨んだが、アメリカが現行の条約を問題視せず、
交渉は断念
寺島宗則
(1876~78年)
アメリカとの交渉で関税自主権の回復を取り付けたが、
イギリス・ドイツなどの反対で無効
第1次伊藤博文内閣
(1885~88年)
三大事件建白運動
(地租の軽減、言論・集会の自由、対等条約の締結)
井上馨
(1882~87年)
改正の条件(内地雑居・外国人判事の任用)や欧化政策が反発をうけ、
交渉は中止
黒田清隆内閣
(1888~89年)
大日本帝国憲法発布により、
日本の近代化が大きく前進
大隈重信
(1888~89年)
改正の条件(大審院への外国人判事の任用)への反発や負傷した大隈の辞任で、
交渉は中止
ロシアの南下政策の本格化・イギリスの態度軟化
第1次山県有朋内閣
(1889~91年)
ロシアの脅威に対する主権線・利益線の防衛に、
軍備増強を主張
青木周蔵
(1891年)
イギリスの態度軟化という時勢に恵まれた条件下で交渉を進めたが、
大津事件で青きが引責辞任して、交渉は中止
(榎本武揚が引き継ぐが本格化せずに終了)
第1次松方正義内閣
(1891~92年)
大津事件
第2次伊藤博文内閣
(1892~1896年)
日清戦争が勃発し、日本の勝利後、
日本とロシアの関係が急速に悪化
陸奥宗光
(1894年)
日清戦争直前に、日英通商航海条約調印に成功して、
関税自主権の関税回復以外を達成