日本は、欧米列強やロシアの勢力が朝鮮半島に及ぶことを強く恐れました。現にロシアは東アジアでの南下を計画していました。朝鮮の文明化とそれによる同国の安全化が必要でした。しかし、朝鮮は清の属国という立場に甘んじていました。清の弱体化はいかんともしがたく、清が欧米列強に抗える力をもたないことは明らかでした。

親清派と親日派

親日派の登場

1876年、 日朝修好条規 締結
 江華島こうかとう 事件の折衝で、日本と朝鮮が結んだ、日本に有利な不平等条約
朝鮮では、清への依存を止め、日本に接近して文明化を目指す“親日派”が増えました。
朝鮮の政府内では、“親日派”と清を宗主国とし続けようとする“親清派”が対立しました。
親清派:国王の父大院君だいいんくん
親日派:国王高宗こうそう・王妃閔妃びんひ・王妃の一族 びん 
国王に主体性がなく、閔妃・閔氏に握られた朝鮮の政権「閔氏政権」は腐敗

親清派の考え
*従来の朝鮮の在り方

親日派の考え

大院君

閔妃

焦る日本と日和見の朝鮮

朝鮮半島の動向は、日本の領土の防衛に直接影響すると考えられていました。
日本は、欧米列強の侵略やロシアの南下が朝鮮半島に及ぶことを恐れ、朝鮮が清への依存を止め、自主的に文明化を遂げることに期待しました。

日本の懸念
1882年、 壬午じんご軍乱  壬午事変 
“親清派”の 大院君 が、閔氏政権に反発して軍隊を動かした反乱
日本公使館襲撃が発生(事件後の済物浦さいもつぽ条約で公使館守備の駐兵許可を獲得)
閔氏政権は、反乱鎮圧を清に頼り、事件後に“親清派”と転じて清に依存

壬午軍乱
1884年、 甲申こうしん事変 
朝鮮の文明化を図る“親日派組織”独立党の 金玉均きんぎょくきん 朴永孝ぼくえいこうらが、1884年の清仏戦争での清敗北を機に、政権奪取を目指した事件
独立党は、日本公使の援助を得たが、清軍の来援で計画失敗

甲申事変

金玉均
壬午軍乱・甲申事変を通じて、まずは朝鮮の清への依存を武力で断ち切り、朝鮮の文明化を積極的に導こうとする主張が、日本国内で強まりました。

日本と清の関係修繕

1885年、 天津てんしん条約 締結
日本と清が、甲申事変への関与で悪化した関係の修繕に締結した条約
日本全権 伊藤博文 ・清全権 李鴻章りこうしょう 
①日本軍(公使館守備に駐兵)と清軍(事変後に駐兵)の朝鮮からの撤兵
事情による出兵時に、相手国に事前通知(例:清軍出兵時は日本に通知)

伊藤博文

李鴻章
朝鮮の文明化への期待棄却―福沢諭吉の「脱亜論」
福沢諭吉は、朝鮮の文明化とアジア一丸での西洋への対抗を理想とし、朝鮮の政治家金玉均に協力しました。しかし甲申事変後、金玉均に再起を促す気力は福沢にありませんでした。1885年、福沢は「脱亜論」を著しました。福沢は「清・朝鮮とアジアを興(おこ)すのは諦める。また、このままでは西洋が清・朝鮮と日本を同一視して“非文明国”と見る。だから日本も清・朝鮮に対して西洋と同じような付き合い方に変え、自国の文明化を進めることが望ましい」と主張しました。朝鮮の文明化に期待した福沢の「敗北宣言」と言えます。

日清間の開戦前夜

軍事力の増強と3国の狙い

日本は、朝鮮をめぐった将来の動向に備え、軍事力の増強に努めていました。
軍令
軍隊の動員・作戦・計画など

ロシアの南下の恐れ

朝鮮(魚)をめぐる日清の対立とロシアの野心
*ビゴー筆「トバエ」1887年2月15日号

防穀令事件

1889年、 防穀ぼうこく令 
朝鮮地方官が、凶作を理由に大豆・米の対日輸出を禁止した命令
条約で約束した事前通知が朝鮮からなく、日本商人に大打撃
日本は、朝鮮に損害賠償を要求し、1893年に賠償金支払いで決着

防穀令

日清両軍の出兵と駐兵

1894年、 甲午こうご農民戦争 (東学の乱)
東学の信徒を中心とした農民が、閔氏政権の圧政に対して起こした反乱
閔氏政権は清に出兵を要請し、天津条約に従って通知された日本も対抗して出兵
鎮圧後も日清両軍は朝鮮に駐兵し、日本は大院君を擁立して“親日派”政権樹立
東学
キリスト教(西学)に対する朝鮮の新興宗教の呼称

甲午農民戦争