明治時代の芸術の世界は、欧化主義の影響によって、洋風が当初栄えました。しかし、国粋主義の台頭と相まって、伝統美術復興の気運が起こり、伝統芸術への回帰が進みました。伝統美術と西洋美術は、どちらを優位とするかでその後も対立していましたが、1907年の文部省美術展覧会の設置を契機に、両者共栄の道へ向かいました。

演劇

歌舞伎

幕末から明治初期にかけて、 河竹黙阿弥もくあみ 歌舞伎かぶきで活躍しました。
1890年代、歌舞伎は次の3人による黄金期「 団菊左 時代」に入りました。

9代目市川団十郎

5代目尾上菊五郎

初代市川左団次

新派劇

オッペケペー節で知られた 川上音二郎 は、素人演劇「壮士芝居」に進出し、日清戦争を題材にして成功を収め、 新派劇 と呼ばれる潮流を形成しました。

新劇

日露戦争後、坪内逍遙つぼうちしょうようの文芸協会や 小山内薫おさないかおる の演劇団体 自由劇場 が、西洋の近代劇を翻訳・上演し、歌舞伎や新派劇に対して 新劇 と呼ばれました。

音楽

西洋音楽

西洋音楽は、まず軍楽隊で取り入れられました。
伊沢修二の努力で、小学校教育に西洋の歌謡を模倣した 唱歌しょうか が採用されました。
1887年、 東京音楽学校 が設立され、本格的な音楽教育が始まりました。
東京音楽学校は、『荒城こうじょうの月』『花』の作曲家 滝廉太郎たきれんたろう を輩出しました。

滝廉太郎

美術

近代美術の概観

1876年、 工部美術学校 が設立され、西洋美術を教授しました。
 岡倉天心 とアメリカ人 フェノロサ が、伝統美術復興の気運を起こしました。
政府は、この気運や欧米での日本画の高い評価を見て、工部美術学校を閉鎖しました。
1887年、岡倉天心・フェノロサの尽力で、西洋美術を除外した 東京美術学校 が設立されました。
岡倉天心・フェノロサ
法隆寺 夢殿ゆめどの救世観音くぜかんのん像を検査
西洋画も次第に盛んになり、1896年、東京美術学校に西洋画科が新設されました。
1907年、第1次西園寺公望内閣の文相牧野伸顕のぶあきが、伝統美術と西洋美術の共栄を図り、日本画・洋画・彫刻の展覧の場 文部省美術展覧会  文展 )を開催しました。
野蛮でいい!―岡倉天心の文明批判
1906年、岡倉天心は『茶の本』で次の言葉を記しました。「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸にふけっていたとき、野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮だいさつりくを犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる。〔中略〕もしもわが国が文明国となるために、身の毛のよだつ戦争の光栄にらなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう。われわれの技芸と理想にふさわしい尊敬がはらわれる時まで喜んで待とう」。これまでの学習を振り返り、天心のこの言葉をどう受けとめるか。

フェノロサ

救世観音像

西洋画

西洋画は、高橋由一ゆいちに開拓されたが、伝統美術復興の気運で一時衰退しました。
浅井ちゅうが日本初の西洋美術団体の明治美術会を結成し、また、 フランス で学んだ 黒田清輝せいき の帰国で、西洋画は次第に盛んになりました。
1896年、黒田清輝は東京美術学校に西洋画科を新設しました。
同年、黒田清輝らが洋画団体 白馬会 を創立し、画壇がだんの主流を形成しました。

代表画家

 高橋由一 
西洋画の開拓者で、代表作は開拓の出発点となった『 さけ 

『鮭』
 浅井ちゅう 代表作は『 収穫 』で、工部美術学校でファンタネージに師事

『収穫』
 黒田清輝 
外光派で、代表作はフランス滞在中の『読書』のほか、『 湖畔こはん 

『読書』

『湖畔』
 青木しげる 
代表作は、千葉県の海がモチーフの『 海のさち 

『海の幸』

伝統美術

1898年に岡倉天心らが設立した団体 日本美術院 が伝統美術発展に貢献しました。

代表画家

 狩野芳崖ほうがい 
代表作は、母性愛を表現した『 悲母ひぼ観音 

『悲母観音』
橋本雅邦がほう
代表作は、伝統的な技法を活かした『龍虎図』

『龍虎図』

彫刻

彫刻の分野でも、伝統と西洋流の対立があったが、文展の開設で共存に向かっていました。

代表彫刻家

高村光雲こううん
伝統的な木彫もくちょうの近代化に尽力し、代表作は「老猿ろうえん

「老猿」
荻原守衛おぎわらもりえ
ロダンに影響されて彫塑ちょうそを志し、代表作は「女」「坑夫」

「女」

建築

 コンドル 
イギリス人建築家で、 鹿鳴ろくめい館  ニコライ堂 を設計

ニコライ堂
 辰野金吾たつのきんご 
 日本銀行 本店・ 東京 駅などの洋風建築を設計

日本銀行本店

東京駅