改新の詔で掲げた公地公民制で、「土地は国家に帰属する」という方針が決まりました。しかし、墾田永年私財法の成立で、私有の田地(私田・荘園)が認められました。10世紀、受領が田地に重税を掛けると、開発領主は私田を有力者に寄進して重税を防ぎました。これにより、11世紀以降の私田は、ほぼ全て寄進地系荘園となりました。

土地の私有化

私田の形成

8~9世紀

田地には、 租 という税が掛かり、1段当たり稲2束2把を納めました。

公田(公有の土地)
 班田収授法 に従い、6年1回の戸籍作成時に、6歳以上の男女に 口分田 の班給をおこないました。
桓武天皇の時、6年1回の班給が12年1回の班給に変更されました。

私田(私有の土地)
722年、 百万町歩開墾計画 が出され、開墾による口分田不足の解消が目指されました。
723年、 三世一身法 が出され、開墾地の期限付きの私有を認めました。
この土地は、期限後に収公され、口分田として農民に班給されました。
743年、 墾田永年私財法 が出され、開墾地の永久的な私有を認めました。
貴族・寺社・地方の有力者は、次々と土地を開墾し、 初期荘園 と呼ばれる大規模な開墾地を私有し始めました。


8~9世紀の図解

10世紀

田地には、租・調・庸・出挙の系譜を引く 官物 と、雑徭に由来する 臨時雑役 の2種類の税が掛かりました。

公田(公有の土地)
口分田が 名  名田 )という単位に再区分されました。
受領(国司)は、有力農民に名の経営を請け負わせました。
名の経営を請け負った有力農民は、 田堵 と呼ばれ、下級農民に名を耕作させ、受領に税を納めました。
多くの名を請け負った田堵を大名田堵と呼称

私田(私有の土地)
大名田堵になるような有力農民は、余力を使って田地(初期荘園)を開墾・経営していきました。
有力農民や土着した軍事貴族など、このように田地の開墾・経営をおこなう人々を 開発領主 と呼びます。
受領(国司)は、開墾された田地(初期荘園)にも際限なく徴税をおこないました。
開発領主は、この徴税から逃れる方法を模索し始めました。


10世紀の図解

私田の新たな在り方

私田の免税方法―寄進地系荘園

開発領主が開墾した田地には、次の2つの悩みがありました。
田地の名義が高位の有力者であれば、受領も口を出せずに①②を防げるのでは!?
そこで開発領主は、受領も及ばない高位で在京の有力者Xに、田地を譲り渡しました(寄進きしん)。
土地の所有者となったX(荘園領主)は、開発領主を現地で田地経営する 荘官 に任命してくれました。
開発領主は以前と同様に田地経営を続けられ、受領は名義を恐れて徴税できなくなりました。
このように①②を防いだ田地を 寄進地系荘園 と呼びます。
荘官
預所あずかりどころ下司げし公文くもんなどの役職の総称
寄進に失敗した初期荘園は衰退し、11世紀以降ほぼ全ての荘園が寄進地系荘園に
寄進地系荘園
有力者の失脚とともに消滅する不安定な田地

寄進と荘官
Xでも受領の横暴を防げない場合、Xがさらに高位の有力者Yに寄進します。
この時、Xを 領家 、Yを 本家 と呼んで区別します。
領家・本家のうち、実際の所有権を有する側を本所とも呼びます。
寄進地系荘園を伝える一例として、肥後国の鹿子木かのこぎ荘が有名

2段階の寄進

寄進地系荘園の派生

寄進地系荘園は、基本的に有力者の名義を受領の際限ない徴税の回避に利用したものです。しかし、 不輸 の権を与えられ、正式に免税(一部または全部)を認められた荘園も登場しました。

 官省符荘 

本家が摂関家などで、太政官・民部省に正式な免税の手続きが取られて不輸を認められた荘園

 国免荘 

受領が際限ない徴税を諦め、開発領主に一定の納税を約束させた上で、不輸を一部認めた荘園

受領と荘園領主の深まる対立

受領は 検田使 を遣わして耕作状況の調査や税の負担量の見定めをさせましたが、荘園に 不入 の権が認められると、検田使の立ち入りが防がれることもありました。
不輸の権に加え、この特権は受領と荘園領主の対立をさらに深めました。


史料

寄進地系荘園(肥後国鹿子木荘の場合)

原文

鹿子木事
一、当寺の相承は、開発領主沙弥寿妙嫡嫡相伝也。
一、寿妙の末流高方の時、権威を借らんが為に、実政卿を以て領家と号し、年貢四百石を以て之を割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職となる。…
一、実政の末流の願西微力の間、国衙の乱妨を防がず。是の故に願西、領家得分二百石を以て、高陽院内親王に寄進す。件の宮薨去の後、御菩提の為に、勝功徳院を立てられ、彼の二百石を寄せらる。其の後、美福門院の御計として、御室に進付せらる。是れ則ち本家の始め也。…

現代語訳

鹿子木荘は寿妙が開発領主で、子孫が代々相続してきた。
孫の中原高方は、この荘園を保護してもらうために、大宰大弐藤原実政を領家とし、年貢4OO石を納めた。そして高方は、この荘園の管理・支配を自由にできる預所となった。
実政の末流で公実の外孫願西(領家)は力が弱く、国司(受領)の乱暴を防げなかった。そのため願西は、領家の収入200石を高陽院内親王に寄進した。
高陽院の没後には、その菩提をとむらうため建てられた勝功徳院にこの2OO石を寄進した。更に美福門院のすすめで仁和寺に寄進した。これが本家の始まりである。

解説

この史料の内容は、下図のように図解できます。
おまかに分類すると、「開発領主・預所職」「領家」「本家」の3グループに分かれます。原文から最低1度はこの図解を作成し、理解できているか確認しましょう。なお、「預所職」とは、荘官の1つです。他には「下司」「公文」などがあります。これらを荘官と総称しています。

ポイント