11世紀後半の政治史に話を戻します。前九年合戦(1051~62年)が終わった頃です。当時、私田のほぼ全てが寄進地系荘園となり、これらが公有の田地である名(名田)と、境界が曖昧なまま混在し、時に境界をめぐって土地問題を起こしました。このような状態に、藤原氏を外祖父としない後三条天皇がメスを入れました。

摂関家に嫌われた天皇

後三条天皇の登場

藤原頼通よりみちの娘には皇子が生まれず、頼通は外祖父の地位を得られませんでした。
藤原氏を外祖父としない 後三条天皇 が即位しました。
後三条の母禎子ていし内親王の父、つまり外祖父は三条天皇

後三条天皇
天皇は能力に応じて人事をおこない、例えば 大江匡房おおえのまさふさ を登用しました。

大江匡房

後三条天皇の事業①―公式の枡

日本全国にわたる共通の枡(体積を計量する容器)がありませんでした。
後三条天皇は 宣旨枡せんじます を制定し、枡の大きさを一定にしました。

後三条天皇の事業②―荘園の正常化

11世紀前半、一国内の土地の様子は下図の通りです。

11世紀前半の一国内の土地
開発領主は荘官として荘園を経営し、隣接する名(名田)の一部を、「荘園だ!」と主張して取り込んでいきました。
荘園による公領国衙領こくがりょう)の圧迫が問題となっていきました。
公領(国衙領)…一国内に広がる公の土地を指し、これの対義語が荘園

荘園による公領の圧迫
1069年、後三条天皇は 延久の荘園整理令 を出し、併せて 記録荘園券契所 を設けました。
記録荘園券契所はは所有者に荘園の面積・成立時期について報告させ、一定の基準に合わない荘園を没収し公領としました。
たとえ摂関家に寄進された荘園でも、調査・廃止の対象になりました。
不当な荘園が正常化し、また、一国の荘園と公領の領域が明確になりました。


荘園公領制

行政区分の再編成

律令国家の行政区分は、国・郡・里(のち里は郷)で構成されました。
11世紀後半、荘園と公領の領域の明確化に合わせ、公領を 郡  郷  保 が並立するように再編成しました。

11世紀前半まで
11世紀後半から
公領内で大名田堵として力を伸ばした開発領主は、時に在庁官人として国府で働きました。
受領(もしくは目代)は、在庁官人から郡司・郷司・保司を任命して、徴税を請け負わせました。
郡司・郷司・保司は、受けもつ公領を自らの所領のように扱いました。
公領は 名  名田 )という単位で経営・耕作されました。
有力農民は、郡司・郷司・保司から名ごとの経営権を貸与され、 名主 として経営しました。
名主
大名田堵のように開発領主・在庁官人へ成長できなった田堵層

荘園における名の採用

11世紀後半から、荘園は公領と同じく名(名田)という単位で経営・耕作されました。
有力農民は、荘官である開発領主から名ごとの経営権を貸与され、 名主 として経営しました。
一国内の荘園と公領が、ほぼ同様の構造をもって並び立つ 荘園公領制 が成立しました。

税の再編成

11世紀前半まで、田地には 官物  臨時雑役 の2種類の税が掛かりました。

11世紀後半から、田地には 年貢  公事  夫役 の3種類の税が掛かりました。
年貢
米・絹布けんぷの納入
公事
炭・野菜などや特産物の納入
夫役
労働奉仕


史料

記録荘園券契所の設置(『愚管抄』)

原文

コノ後三条位ノ御時、…延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿ノ時、一ノ所ノ御領御領トノミ云テ、庄園諸国ニミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケルニコソ。サテ宣旨ヲ下サレテ、諸人領知ノ庄園ノ文書ヲメサレケルニ、宇治殿ヘ仰ラレタリケル御返事ニ、「皆サ心エラレタリケルニヤ、五十余年君ノ御ウシロミヲツカウマツリテ候シ間、所領モチテ候者ノ強縁ニセンナド思ツヽヨセタビ候ヒシカバ、サニコソナンド申タルバカリニテマカリスギ候キ。ナンデウ文書カハ候ベキ。…」ト、サハヤカニ申サレタリケレバ、…

現代語訳

この後三条天皇の御時に、…延久の記録所というものを初めて設けられた。この理由は、全国にある私領(荘園)が、宣旨や官符で認められたわけでもないのに公田をかすめ取っており、それが大いなる害悪だと天皇がお考えになっていたからだろう。特に宇治殿(藤原頼通)の時に、「摂関家の御領だ、摂関家の御領だ」といって諸国に荘園があふれ、受領の任務が果たせないなどという不満の声があがっていたのを御耳にとめておいでになったからだろう。さて後三条天皇が宣旨を下されて、各人が支配している荘園の文書を提出させたところ、宇治殿の御返事は、「みんな納得して承知していたのではないでしょうか。五〇年余りも天皇の御後見役を勤めて参りましたが、その間に所領を持つ者が私と少しでも強い縁を結ぼうとして所領を寄進して参りましたので、私が「そうか」というだけで(受けとって)今まで過ごして参りました。どうして文書などありましょうか。……」とはっきりと返答されたので、……

解説

後三条天皇が即位した頃、各地で荘園が増加していました。しかも増加するだけでなく、日に日に公田の領域を侵犯し、遂には公田の一部を荘園だと主張して接収することもありました。こうした事態にメスを入れたのが、藤原頼道を外祖父としない後三条天皇です。天皇が設立した記録荘園券契所は、荘園の成立・面積などを詳細に記載した文書を所有者に届けさせ、不備が発覚すれば荘園を取りつぶしました。追及は藤原頼通にもされます。頼道はしらを切り続け、中々摂関家の荘園にはメスが届きませんが、摂関家を例外にせず厳しく取りしまろうとしたことから、天皇の出自や意気込みや感じられます。

ポイント