承久の乱後、朝廷と幕府の二元的支配のバランスが崩れ、幕府の優位が決定的となりました。加えて、後嵯峨上皇以降、幕府は皇位継承にも発言力をもちました。持明院統・大覚寺統が対立して皇位を争う中、大覚寺統から後醍醐天皇が即位しました。後醍醐は幕府主導の現状を嘆き・怒り、遂に討幕を計画するに至りました。

後醍醐天皇の登場

後嵯峨上皇没後の対立

後嵯峨上皇の生前


後嵯峨上皇

後嵯峨上皇の死後


後深草上皇(左)・亀山天皇(右)
(後嵯峨の長男・後嵯峨の次男)

皇位継承の妥協案

後嵯峨上皇の遺志を考え、幕府は亀山天皇を支持しました。
後に亀山天皇は子に譲位しました。

亀山天皇
子の即位が叶わず、後深草上皇は自暴自棄になり、出家を宣言しました。
この事態に幕府は調停を決意しました。

後深草上皇
後深草上皇の子孫を 持明院 統(経済的基盤:長講堂領)、亀山天皇の子孫を 大覚寺 統(経済的基盤:八条院領)と言います。
幕府の調停は、この2つの統から天皇を交互に即位させる方法でした。
この即位の方法を両統迭立りょうとうてつりつと言います。

両統迭立

後醍醐天皇の悩み

1318年、 大覚寺 統から 後醍醐 天皇が即位しました。
後醍醐は朱子学の大義名分論に影響を受け、幕府の存在自体に批判的でした。
朝廷の権限回復のため、意欲的に諸改革に取り組みました。
後醍醐天皇
諡号しごうを自ら「後醍醐」としたように、 延喜・天暦の治 を理想視
しかし、後醍醐の最大の悩みは、皇位継承が天皇の意思に反することでした。
後醍醐は鎌倉幕府の政情不安を見て、討幕計画を開始しました。
後醍醐天皇(尊治親王)
絵画に描かれるヒゲと密教法具をもつ姿は、他の天皇にない異形さを示します。建武の新政では急進的な改革を目指したため、多くの者の離反を招いてしまいました。
謀議のための茶会―無礼講ぶれいこう
後醍醐天皇は討幕計画の秘密を守るために、「無礼講」と称した飲茶の会合にことよせて、謀議をこらしました。身分を超えた謀議をおこなうために、「衣冠を着せず、ほとんど裸形」での乱遊でした。一説によれば、「無礼講」の由来は、後醍醐によるこの謀議だと言われています。

幕府の政情不安

得宗北条高時のもと、内管領長崎高資たかすけが権勢を握っていました。
この状況に加え、窮乏などで御家人の不満は高まっていました。
北条高時(14代執権)
闘犬・田楽に興じ、享楽的生活を送った暗愚と、後の記録で多く伝えられています。後世の誇張はありますが、少なくとも執権という自覚をもたなかった人物と言えます。

鎌倉幕府の倒壊

高まる討幕の気運

後醍醐天皇は、幕府に不満を抱く御家人・僧兵・悪党を集め、密かに討幕の計画を進めました。
1324年、 正中の変 
計画の露見により後醍醐の近臣が罪に問われた事件
1331年、 元弘の変 
再度の計画露見で後醍醐が挙兵し、 隠岐 に流された事件
 持明院 統から 光厳 天皇が即位
元弘の変以後、後醍醐側・幕府側の戦いが続きました。
後醍醐天皇側では、後醍醐の皇子 護良もりよし親王 と、悪党とされた河内の 楠木正成くすのきまさしげ が奮闘しました。
後に後醍醐は隠岐を脱出し挙兵に加わりました。

武将の離反と幕府の倒壊

幕府側では、軍の指揮官であった 足利高氏 と、高氏に同調した 新田義貞にったよしさだ が奮闘しました。
後に2人は離反して、幕府に決定的打撃を与えました。
高氏は京都の 六波羅探題 を攻め落とし、義貞は鎌倉を攻めて得宗 北条高時 ら北条氏と、内管領 長崎高資 を滅ぼしました。
1333年、鎌倉幕府は倒壊しました。
足利高氏(尊氏)
源義家の時に枝分かれした源氏の分流出身。鎌倉幕府は源氏が打ち立てた政治組織であり、足利氏は自らを北条氏に取って代わる存在だと、当然自覚したでしょう。なお、高氏は後醍醐天皇の「尊治」の1字をもらい、「尊氏」と後に名乗りました。
新田義貞
源義家の時に枝分かれした源氏の分流出身。足利氏と祖先を同じくしながら、鎌倉時代を通じて重んぜられませんでした。北条氏への不満は強かったと思われます。