豊臣秀吉の死後の政局は、既に失敗が明白となっていた朝鮮出兵の後始末を当面の課題とし、徳川家康・石田三成の対立を背景として展開しました。秀吉の路線を推進する三成に、諸大名は不満を募らせ、それを関ヶ原の戦いにおける家康の支持という形で現しました。結果、家康は実質的な天下人となり、江戸幕府を開くに至りました。

江戸幕府の成立

関ヶ原の戦いと江戸時代の幕開け

 徳川家康 は織田信長と同盟し、東海地方での勢力を伸ばしました。
豊臣政権下の1590年、徳川家康は勢力基盤を関東に移しました。

徳川家康
また、豊臣政権下の徳川家康は五大老筆頭の地位にありました。
1598年に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康はその地位をさらに高め、豊臣政権の存続を望む五奉行の石田三成みつなりと対立しました。

石田三成と徳川家康
1600年、 関ヶ原の戦い 
徳川家康らの東軍と石田三成らの西軍の戦いで、東軍の勝利
東軍は徳川家康・福島正則まさのり・黒田長政ながまさら、西軍は石田三成・五大老毛利輝元てるもと(盟主)・小西行長ら

関ヶ原の戦い(家康の陣)

関ヶ原の戦い
徳川家康は、西軍の諸大名に対する処分として、領地を没収する 改易 や削減する 減封げんぽう をおこないました。
この結果生じた空白地を東軍の諸大名に割り当てました。
徳川家康は、諸大名の配置決めを通じて全国支配を強め、1603年、 征夷大将軍 の宣下を受けて支配の正当性を得ました。
江戸幕府が開かれ、以降1868年までを江戸時代と呼びます。

支配と将軍職世襲の表明

徳川家康は、次の①②を実施することで支配者であることを知らしめました。
1605年、徳川家康は将軍職を辞し、子 徳川秀忠ひでただ に将軍宣下を受けさせました。
将軍職が徳川氏の世襲せしゅうであることを天下に示しました。
家康は駿府すんぷに移り、大御所おおごしょ(前将軍)として実権を引き続き掌握

新秩序への抵抗と元和偃武

豊臣氏は依然大坂城に住み、徳川家康の圧力を拒み続けました。
1614~15年、 大坂の役 (大坂冬の陣・夏の陣)
 方広寺 鐘銘しょうめいを口実に、豊臣秀吉の次子 豊臣秀頼 を滅ぼした戦い
元和偃武げんなえんぶ
江戸幕府が発した、応仁の乱以来の大規模な軍事衝突の終結宣言

方広寺の鐘

鐘銘「国家安康」「君臣安楽」
*「家康」を切り離す「国家安康」が、家康を殺す呪術だと解釈可能!?

大坂の役(夏の陣)

幕藩体制

大名の分類

将軍と主従関係を結んだ石高 1 万石以上の武士を 大名 (藩主)と呼びます。
大名は将軍との親疎関係で3つに分類されます。
明治時代に成立した、江戸時代の大名の領地に対する呼称(幕府開設時は約180藩)

大御所家康の政策

大御所となった徳川家康は、次の①②の政策をおこないました。

徳川家康

金地院崇伝

2代将軍秀忠の政策

家康の死後、2代将軍 徳川秀忠 は、次の①②の政策をおこないました。
1623年、徳川秀忠は将軍職を辞し、大御所として幕府の基礎を固めました。

徳川秀忠

3代将軍家光の政策

秀忠の死後、3代将軍 徳川家光 は、次の①~③の政策をおこないました。

徳川家光
種々の政策を通じて、徳川家光の頃までに将軍と大名の主従関係が確立しました。
幕府(将軍)を頂点に、大名が幕府の命令に従い、土地と人民を統治する体制を 幕藩体制 と言います。

史料

武家諸法度(元和令)

原文

一 文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事。……
一 諸国ノ居城修補ヲ為スト雖モ、必ズ言上スベシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事。……

現代語訳

一、文武弓馬の道に、ひたすら励むようにせよ。……
一、諸国の居城はたとえ修理であっても必ず幕府に報告せよ。まして、新規に築城することは厳重に禁止する。……

解説

武家諸法度(寛永令)

原文

一 大名小名、在江戸交替、相定ル所也。毎歳夏四月中参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労也。向後其ノ相応ヲ以テ、之ヲ減少スベシ。……
一 私ノ関所、新法ノ津留、制禁ノ事。
一 五百石以上ノ船停止ノ事。

現代語訳

一、大名・小名が国元と江戸とを参勤交代するよう定めるものである。毎年夏の四月中に江戸へ参勤せよ。しかし、参勤に来る大名の供の者の人数がたいへん多くなっている。これは治めている国や郡の無駄な出費であり、人々の苦しむところとなる。これからは供の人数をよく考えて減らすことが必要である。……
一、大名が私設の関所をつくったり、津留といって新たに港や川に関所をつくったりすることを禁止する。
一、五〇〇石積み以上の船をつくることは禁止する。

解説