18~19世紀、世界情勢は近代に向けて大きく胎動し、日本近海には異国の船が現れ始めました。そして1788年、国後島のアイヌが蜂起しました。アイヌとロシアの連携の可能性もあり、幕府はロシアに対する警戒心を強めました。このような状況下、寛政の改革に取り組む松平定信は、「鎖国」を「祖法」だと強調して異国に対応しました。

寛政の改革―外患

ロシアの来航

伊勢の船頭せんどう 大黒屋光太夫だいこくやこうだゆう は、嵐で漂流し、アムチトカ島に漂着しました。
光太夫はロシア人に救われ、1791年、ロシアの首都サンクトペテルブルクで、女帝エカチェリーナ2世に拝謁はいえつして帰国を許されました。
1792年、ロシア使節 ラクスマン 蝦夷地えぞち 根室ねむろ に来航し、光太夫を届けるとともに通商を求めました。
ラクスマンは通商と江戸入港を拒否され、長崎入港の許可証信牌しんぱい を受けて帰国しました。
光太夫の見聞をもとに、桂川甫周ほしゅうが『北槎聞略ほくさぶんりゃく』を著述

大黒屋光太夫

アムチトカ島

大黒屋光太夫の往路

エカチェリーナ2世

ラクスマン
ロシアが、漂流民引渡しを口実に江戸直航の意向を示したので、幕府は沿海の諸藩に海防を命じるとともに、江戸湾の防備を厳重にしました。

松平定信の退陣

1793年、老中 松平定信 は次の出来事で対立を生み、退陣させられました。
松平定信
引退後、随筆『花月草紙』や自伝『宇下人言うげのひとごと』を著述

松平定信

寛政の改革への批判
(定信は白河藩主)

異国の接近

蝦夷地政策

松平定信の退陣の頃、ロシア人が択捉島えとろふとうに現れ、現地のアイヌと交易していました。
1798年、幕府は幕臣 近藤重蔵  最上徳内 らを択捉島調査に派遣し、「大日本恵登呂府えとろふ」の標柱を建てさせて日本の領土と示しました。

東蝦夷地
1799年、幕府は 東 蝦夷地(北海道東岸部から千島)を永久直轄地とし、蝦夷地の直接経営に乗り出しました。
居住するアイヌには、和人同様の風俗を強制する同化政策を進めていきました。

対外的緊張の高まり

対ロシア

1804年、ロシア使節 レザノフ が、ラクスマンのもち帰った信牌を携え、 長崎 に来航して通商開始を求めました。
幕府は要求を全て拒んだ上で、信牌を再交付せずに使節を帰航させました。
冷淡な幕府の対応に、ロシア船が報復として択捉島などを攻撃しました。

レザノフ
1807年、幕府は 松前 藩と 西 蝦夷地(北海道西岸部から南樺太からふと)も直轄にし、 松前奉行 の支配のもとに置きました(全蝦夷地の直轄地化)。
東北諸藩には、蝦夷地海岸に大砲を架設する台場を設けさせるなど警護に当たらせました。
1808年、幕府は 間宮林蔵まみやりんぞう に樺太を探査させました。
間宮林蔵
樺太が「島」であること、つまり、対岸との間に間宮海峡(彼の名前に由来)を発見

間宮海峡

対イギリス

1808年、 フェートン号事件 
イギリス軍艦フェートン号が、敵国オランダの船を捕獲するために長崎を訪れ、オランダ商館員を人質にして薪水しんすい・食糧を強要し、やがて退去した事件
不法行為を見過ごした長崎奉行松平康英やすひでが、事件後に責任をとって自刃
1810年、幕府は白河・会津あいづ両藩に江戸湾の防備を命じました。

フェートン号

対ロシアの緊張緩和

1811~1813年、 ゴローウニン事件 
1811年、幕府が国後くなしり島に上陸したロシア艦長 ゴローウニン を監禁し、1812年、対するロシアが淡路の商人 高田屋嘉兵衛たかだやかへえ を抑留した事件
幕府とロシアは今後の誓約を結び、ゴローウニン・高田屋嘉兵衛が釈放されて事件解決
緊張が緩和したため、1821年、幕府は松前藩と東西蝦夷地の直轄を止めました。

ゴローウニンの連行

対外政策の方針決定

ロシアとの緊張緩和後も、幕府は日本近海に出没する異国船に悩み、次の対策を講じました。
異国船打払令
発令以前は、衝突回避のために薪水・食糧を供給して帰国させる方針
通信使
江戸まで迎えると莫大な費用が掛かり、日本の地理・実情が異国に漏洩ろうえいする恐れあり