一問一答
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- 1219年、3代将軍源実朝が頼家の遺児に暗殺された。この遺児は誰か。
- 公暁
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- 1203年、北条時政は源頼家の後見の人物を討ち、次いで頼家を幽閉・暗殺した。この後見の人物は誰か。
- 比企能員
能員の母は、頼朝の乳母にあたる。そのため、比企氏は将軍に重用されていた。なお、後見とは後ろだてとして指導・監督する人をいう。
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- 新補率法が適用されない地頭、あるいは従来の地頭の名称は何か。
- 本補地頭
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- 1213年、北条義時は和田義盛を討った。義盛の生前の役職と、討たれた戦いの名称は何か。
- 役職…侍所別当戦い…和田合戦
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- 承久の乱後、上皇側についた貴族・武士の所領3000余カ所が没収され、御家人が地頭として配置された。収入の少ない土地に配置される場合、収入を補うために適法された法の名称は何か。
- 新補率法
前の所有者の収入に加え、①田畑11段ごとに1町の免田②田地1段につき5升の米③山・川からの収益の半分を収入にした。
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- 幕府は4代将軍に皇族を望んだが、後鳥羽上皇に拒絶された。そこで、頼朝の遠縁にあたる人物を将軍候補として鎌倉に招いた。招かれた人物は誰か。
- 藤原頼経
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- 幕府創設以来の有力御家人が病没するなかで勢力をのばした、北条政子の父にあたる人物は誰か。
- 北条時政
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- 1226年、藤原頼経は将軍に就任した。源氏出身の将軍と区別して、藤原氏出身の将軍を何と呼んだか。
- 藤原将軍(摂家将軍)
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- 承久の乱において、幕府は北条義時の弟と子の軍を京に送った。この弟と子は誰か。
- 義時の弟…北条時房義時の子…北条泰時
このうち泰時は3代執権となった。
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- 源頼朝の死後、2代将軍となった人物は誰か。
- 源頼家
先走った考えをもち、御家人から反発を受けた。頼家は権限を制限され、有力御家人13名の合議で裁判の裁決がなされた。
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- 承久の乱後、幕府が京に設置して朝廷の監視・西国の統括をさせた機関の名称は何か。
- 六波羅探題
初代は北条泰時と北条時房であった。
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- 北条義時は侍所別当と政所別当を兼務するようになった。代々北条氏で世襲されていった、侍所別当と政所別当を兼務する地位の名称は何か。
- 執権
執権が中心となった幕府の政治を「執権政治」という。
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- 1221年、後鳥羽上皇は北条義時追討の兵をあげた。これによって起きた乱の名称は何か。
- 承久の乱
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- 北条時政に擁立されて、3代将軍になった人物は誰か。
- 源実朝
文化面に没頭して『金槐和歌集』を編纂した。
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- 承久の乱で上皇軍を破った幕府は、即位中の天皇を廃し、また3人の上皇を流刑に処した。3人の上皇のうち、後鳥羽上皇の流刑先はどこか。
- 隠岐
後鳥羽上皇…隠岐土御門上皇…土佐(のちに阿波)順徳上皇…佐渡仲恭天皇…廃帝
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- 新補率法が適用された地頭の名称は何か。
- 新補地頭
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- 北条時政の子は、父から政所長官の地位を継いだ。この人物は誰か。
- 北条義時
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- 安徳天皇の次に即位した天皇は、上皇となって院政を初め、次第に朝廷の政治を立て直していった。この上皇は誰か。
- 後鳥羽上皇
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- 後鳥羽上皇は院の軍事力を増強するために、新たな警護組織を設置した。この警護組織の名称は何か。
- 西面の武士
「北面の武士」あるいは「滝口の武士」との混乱に注意が必要である。北面の武士は、白河上皇が院の北面に設置し始めた警護組織を指す。滝口の武士は、宮中の警備組織を指す。
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- 北条時政は源実朝の擁立後に、ある機関の長官に就任した。この役職の名称は何か。
- 政所別当