一問一答
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- 武士は地位を守るために武芸を習得する必要があった。犬を的にして、馬上から鏑矢を当てる武芸の名称は何か。
- 犬追物
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- 北条義時は侍所別当と政所別当を兼務するようになった。代々北条氏で世襲されていった、侍所別当と政所別当を兼務する地位の名称は何か。
- 執権
執権が中心となった幕府の政治を「執権政治」という。
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- 浄土宗の教えをさらに深め、信不信・浄不浄を問わずに念仏を唱えれば往生できると考えた人物は誰か。
- 一遍
法然の浄土宗では、阿弥陀如来への信心をもって念仏に専念する。この点において、浄土宗と時宗は大きく違う。
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- 「南無阿弥陀仏」と唱えることの名称は何か。
- 念仏
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- 親鸞の著書名は何か。
- 『教行信証』
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- 皇位継承の争いを解消するため、持明院統・大覚寺統の両統が交代で皇位につくことを何というか。
- 両統迭立
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- 御恩の1つで、先祖伝来の土地の所有を保障してもらうことの名称は何か。
- 本領安堵
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- 1180年から6年にわたる全国的な争乱が続いた。この争乱の名称は何か。
- 治承・寿永の乱
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- 『平家物語』を各地で広めた担い手は誰か。
- 琵琶法師
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- 北条高時の下、内管領として権勢を握った人物は誰か。
- 長崎高資
内管領とは、御内人の代表である。
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- やがて北条貞時が平頼綱を滅ぼすと、執権を務める得宗1人に幕府の権力が集中した。得宗1人が実権を握る政治の名称は何か。
- 得宗専制政治
執権政治では合議制を重んじた。得宗専制政治では得宗の独断によるところが大きい。
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- 承久の乱で上皇軍を破った幕府は、即位中の天皇を廃し、また3人の上皇を流刑に処した。3人の上皇のうち、後鳥羽上皇の流刑先はどこか。
- 隠岐
後鳥羽上皇…隠岐土御門上皇…土佐(のちに阿波)順徳上皇…佐渡仲恭天皇…廃帝
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- 南都六宗のうち律宗の僧で、良観とも称した人物は誰か。
- 忍性
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- 平安時代後期から民間で技術者集団が活躍するようになった。同業者同士で特権を認め合うために結成した団体の名称は何か。
- 座
排他的な集団で、新興を妨げた。後に戦国大名たちは、「楽市」などで排他的性格を緩和させた。
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- 1284年に得宗となった北条時頼の子は誰か。
- 北条貞時
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- 新補率法が適用された地頭の名称は何か。
- 新補地頭
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- 荘園公領制が進むと、交通の要所、寺社の門前に定期的に市場がひらかれた。この市場の名称は何か。
- 定期市
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- 霜月騒動で有力御家人を滅ぼした御内人代表は誰か。また、御内人代表の名称は何か。
- 代表者…平頼綱御内人代表…内管領
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- 承久の乱後、北条義時の執権の地位を継承した人物は誰か。
- 北条泰時
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- 栄西の教えを継ぐ宗派の名称は何か。
- 臨済宗
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- 尊円入道親王が創始した書風の名称は何か。
- 青蓮院流
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- 草を刈って田に敷き込む肥料の名称は何か。
- 刈敷
二毛作は地力(作物を育てる土地の栄養分など)をすぐに弱めるので、肥料による回復が必要である。
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- 平氏滅亡後の1185年、源頼朝は後白河上皇から様々な権利を得た。軍事・治安維持を目的に、諸国に原則1人置かれた役職の名称は何か。
- 守護
当初の設置目的は源義経の追討であった。
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- 武士の成長とともに、刀剣の製作が盛んになった。鎌倉の名工として知られる人物は誰か。
- 岡崎正宗
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- 度会家行が著した書の名称は何か。
- 『類聚神祇本源』
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- 似絵の名手として有名な藤原氏の父子は誰か。
- 藤原隆信・信実
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- 時宗の中心寺院はどこか。
- 清浄光寺
神奈川県に立地する。
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- 曹洞宗の中心寺院はどこか。
- 永平寺
福井県に立地
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- 末法思想を否定、日本仏教に大陸で主流の修行を加味することで、末法に動揺する現状を立て直そうした人物は誰か。
- 栄西
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- 北条泰時は合議制を確立するために、執権と連署に加えて、11人の有力御家人をある役職に任命した。この役職の名称は何か。
- 評定衆
執権・連署・評定衆の計13名で構成される会議を「評定」という。評定で裁判の裁決をした。
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- 1213年、北条義時は和田義盛を討った。義盛の生前の役職と、討たれた戦いの名称は何か。
- 役職…侍所別当戦い…和田合戦
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- 浄土真宗の中心寺院はどこか。
- 本願寺
京都に立地する。
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- 南都六宗のうち華厳宗の僧で、高弁とも称した人物は誰か。
- 明恵
『摧邪輪』を著して、法然の『選択本願念仏集』に反論した。
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- 承久の乱後、上皇側についた貴族・武士の所領3000余カ所が没収され、御家人が地頭として配置された。収入の少ない土地に配置される場合、収入を補うために適法された法の名称は何か。
- 新補率法
前の所有者の収入に加え、①田畑11段ごとに1町の免田②田地1段につき5升の米③山・川からの収益の半分を収入にした。
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- 元弘の変後、持明院統から即位した天皇は誰か。
- 光厳天皇
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- 1232年、北条泰時が制定した法典の名称は何か。
- 御成敗式目(貞永式目)
源頼朝以来の「先例」、武士社会の「道理」に基づく全51カ条から成る。当初は幕府の権限がおよぶ地域にのみ適用した。
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- 院政期に発展した絵巻物は、鎌倉時代においても多く描かれ続けた。題材は2人の兄弟の対照的な物語で、地方武士の生活を描く絵巻物の名称は何か。
- 『男衾三郎絵巻』
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- 北条時頼は藤原頼経を将軍の座から引きずり下ろし、その子を次の将軍として就任させた。新たに将軍となった人物は誰か。
- 藤原頼嗣
藤原将軍(摂家将軍)であった。将軍在職20年の間に、藤原頼経は三浦氏など一部の御家人と親近な主従関係をもった。将軍と強く結びついた一部の御家人は、北条氏が御家人を統制する上での障害となった。
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- 院政期に発展した絵巻物は、鎌倉時代においても多く描かれ続けた。自身の奮闘を子孫に伝えるために、竹崎季長が描かせた絵巻物の名称は何か。
- 『蒙古襲来絵巻』
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- 3代将軍の源実朝による歌集の名称は何か。
- 『金槐和歌集』
源実朝は藤原定家に歌を学んだ。「金槐」の「金」は鎌倉、「槐」は実朝の官位が大臣であり、その中国名に由来する。
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- 臨済宗の中心寺院はどこか。
- 建仁寺
京都に立地する。
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- ひたすら坐禅に打ち込むことの名称は何か。
- 只管打坐
「只管(しかん)」は「ひたすら」とも読む。
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- 主従関係を結んだ時、将軍が御家人から得る利益の名称は何か。
- 奉公
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- 亀山天皇の血統の名称は何か。
- 大覚寺統
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- 館の周辺部にもうけられた免田の名称は何か。
- 佃
門田・正作・用作とも呼び、免田(税が免除される田地)であった。
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- 北条時政に擁立されて、3代将軍になった人物は誰か。
- 源実朝
文化面に没頭して『金槐和歌集』を編纂した。
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- 1247年、北条時頼が三浦氏を滅ぼした戦いの名称は何か。また、当時の三浦氏の代表は誰か。
- 戦い…宝治合戦人物…三浦泰村
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- 月に3度ひらかれる市場の名称は何か。
- 三斎市
月に6度ひらかれる市場は六斎市である。
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- 親鸞の教えを継ぐ宗派の名称は何か。
- 浄土真宗
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- 北条氏の惣領(家督)の名称は何か。
- 得宗
原則的に得宗が執権を務めた。
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- 草木を焼いて灰にした肥料の名称は何か。
- 草木灰
二毛作は地力(作物を育てる土地の栄養分など)をすぐに弱めるので、肥料による回復が必要である。
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- 書道の分野において、和様に宋の書風を加味して新たな書風を創始した親王は誰か。
- 尊円入道親王
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- 御恩の1つで、新たな土地を与えられることの名称は何か。
- 新恩給与
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- 念仏に専念することの名称は何か。
- 専修念仏
念仏に専念して修めることを意味する。法然は多くの修行をやめ、ただ念仏に専念すれば往生できると考えた。
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- 承久の乱後、幕府が京に設置して朝廷の監視・西国の統括をさせた機関の名称は何か。
- 六波羅探題
初代は北条泰時と北条時房であった。
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- 以仁王の挙兵はすぐに鎮圧されたが反平氏の動きは止まらず、平氏は都を摂津国に遷した。新都の名称は何か。
- 福原京
平安京では敵対する寺院の脅威があった。平氏一族内からも新都反対の声が強く、数ヶ月で平安京に戻った。
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- 栄西が修行の中心に据えた行為の名称は何か。
- 坐禅
禅は、心を安定・統一することを指す。坐禅は禅に至るための1つの手段に過ぎない。「座禅」と表記される場合もあるが、正式には「坐禅」
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- 1180年、安徳天皇の即位により、反平氏の気運が高まった。後白河上皇の子で諸国の源氏に挙兵を呼びかけ、自身もまた挙兵を試みた人物は誰か。
- 以仁王
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- 道元の教えを継ぐ宗派の名称は何か。
- 曹洞宗
臨済宗と異なり、幕府・朝廷などの権勢に近づくことを戒めた。
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- 奉公として、戦時の軍役とは別に、御家人が平時に果たす役目があった。交代で京の警備をする役目の名称は何か。
- 京都大番役
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- 鎌倉幕府の中央機構には、様々な機関があった。一般政務や財務事務にあたった機関の名称は何か。また、初代長官は誰か。
- 機関…政所初代…大江広元
当初の名称は「公文所」であった。
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- 南都六宗のうち法相宗の僧で、解脱上人とも称された人物は誰か。
- 貞慶
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- 度会家行が生み出した神道の名称は何か。
- 伊勢神道
なお、この神道では、豊受≧天照という立場が主張される。
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- 武士は身分(御家人)・職権(地頭)を踏み台に、荘園領主への納税をしばしば怠った。滞納への1つの妥協策として、荘園領主が地頭に一切の荘園管理権を譲ね、かわりに一定の年貢納入を約束させることの名称は何か。
- 地頭請
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- 写実的な技術が発展して、肖像画が発達した。肖像画のなかでも、特に記録画の類の名称は何か。
- 似絵
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- 法然の著書名は何か。
- 『選択本願念仏集』
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- 藤原頼嗣が廃され、新たに将軍となった後嵯峨上皇の子は誰か。
- 宗尊親王
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- 平氏滅亡後の1185年、源頼朝は後白河上皇から様々な権利を得た。土地管理(名主からの徴税等)を目的に、諸国の荘園・公領に置かれた役職の名称は何か。
- 地頭
当初、地頭の設置は平家没管領を中心におこなわれた。
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- 南無阿弥陀仏」に節をつけて詠唱し、拍子に合わせて踊る宗教舞踊の名称は何か。
- 踊念仏
踊念仏は、往生できる喜びが自然と体現された行為である。娯楽の要素が強い踊念仏は民衆にとって受け入れやすく、教えを広めるために役立った。
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- 義経追討後に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、1192年、武家政権の首長の称号とも言える官職に任じられた。この官職の名称は何か。
- 征夷大将軍
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- 平安時代末期に平氏の焼討ちを受けた南都の寺院は、早急な復興を要した。これら寺院の復興を任され、その資金を寄付に頼って各地をまわった人物は誰か。
- 重源
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- 承久の乱において、幕府は北条義時の弟と子の軍を京に送った。この弟と子は誰か。
- 義時の弟…北条時房義時の子…北条泰時
このうち泰時は3代執権となった。
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- 1274年、元は高麗の兵をあわせた約3万人の兵で、九州北部を襲った。元による1度目の襲来の名称は何か。
- 文永の役
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- 琵琶を弾きながら、『平家物語』を語る音楽の名称は何か。
- 平曲
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- 1181年、西国・畿内は飢饉に見舞われた。この飢饉の名称は何か。
- 養和の飢饉
飢饉は清盛の死と合わせて平氏の基盤を弱体化させた。
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- モンゴル帝国の第5第皇帝は誰か。
- フビライ=ハン
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- 鎌倉時代に登場した金貸業者の名称は何か。
- 借上
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- 院政期に発展した絵巻物は、鎌倉時代においても多く描かれ続けた。布教を目的に、時宗の開祖の活躍を描く絵巻物の名称は何か。
- 『一遍上人絵伝』
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- 当時、荘園領主のもとで効力をもった法の名称は何か。
- 本所法
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- 金沢(北条)実時が設けた文庫の名称は何か。
- 金沢文庫
現在の神奈川県に立地した。
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- 1268年、元からの国書が到着したが、最終的に幕府は返書を拒否した。幕府が元の襲来に備えて、九州北部の沿岸に配備させた軍役の名称は何か。
- 異国警固番役
古代で言えば「防人」のような役割を務めた。
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- 武力に訴えて荘園領主に抵抗する者が登場した。幕府が付けた彼らの呼称は何か。
- 悪党
御家人・非御家人問わず、世を乱す者を幕府は「悪党」と呼んだ。
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- 後醍醐天皇に強い影響を与えた朱子学の考えは何か。
- 大義名分論
この世には、決して変わることのない上下関係が、定まっているとする考えである。
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- 1285年、御内人代表に有力御家人が滅ぼされた。この出来事の名称は何か。また、滅ぼされた有力御家人は誰か。
- 出来事…霜月騒動有力御家人…安達泰盛
霜月は陰暦11月の異称である。
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- 貴族社会において、過ぎ去った時代への懐古・尊重から古典研究が盛んになった。儀礼・年中行事・官職などを研究する学問の名称は何か。
- 有職故実
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- 後醍醐天皇の即位時、執権の地位にあった人物は誰か。
- 北条高時
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- 農業において、夏季に米を冬季に小麦を栽培することが普及した。この栽培方法の名称は何か。
- 二毛作
普及した背景は次の通りである。①市場の発達で農民が鉄製農具を容易に入手できたこと②牛馬利用が普及したこと③先の2つの理由で、農耕が手早く行えるようになったこと、以上である。
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- 一遍の教えを継ぐ宗派の名称は何か。
- 時宗
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- 大覚寺統から即位し、やがて鎌倉幕府の討幕を計画した天皇は誰か。
- 後醍醐天皇
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- 平安末期の災厄を描き、人や社会の無常を嘆く鴨長明の随筆の名称は何か。
- 『方丈記』
『方丈記』には福原京遷都、養和の飢饉などが載る。
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- 1331年、再び討幕の計画が露見し、天皇側が挙兵した事件の名称は何か。
- 元弘の変
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- 釉を伝え、瀬戸焼をひらいたと言われる人物は誰か。
- 加藤景正
釉(うわぐすり)を伝えたと人物とも言われる。
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- 院政期に発展した絵巻物は、鎌倉時代においても多く描かれ続けた。北野天満宮の由来を、菅原道真の生涯とともに伝える絵巻物の名称は何か。
- 『北野天神縁起絵巻』
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- 浄土宗の中心寺院はどこか。
- 知恩院
京都に立地する。
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- 1226年、藤原頼経は将軍に就任した。源氏出身の将軍と区別して、藤原氏出身の将軍を何と呼んだか。
- 藤原将軍(摂家将軍)
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- 武士は地位を守るために武芸を習得する必要があった。必要に応じて1つの的の位置・大小を変化させ、それを疾走する馬上から射抜く武芸の名称は何か。
- 笠懸
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- 北条時政は源実朝の擁立後に、ある機関の長官に就任した。この役職の名称は何か。
- 政所別当
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- 貨幣経済の発展に巻き込まれて、御家人たちが窮乏すると、幕府はその対応に追われた。1297年、幕府が発布した法令の名称は何か。
- 永仁の徳政令
質入れ・売買後、20年経過していない土地に限り無償で返還された。効果は一時的にすぎず、また、混乱も生じた。語呂は、「皮肉な(1297)結果の徳政令」である。
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- 後深草上皇の血統の名称は何か。
- 持明院統
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- 慈円が著した歴史書の名称は何か。
- 著書…『愚管抄』
すべての物事には「そうなるべき」道理があるとして、慈円はその中でも歴史を貫く道理を探ろうとした。