一問一答
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- 栄西は、坐禅中に師からの質問に答えていくことで、やがて真理を悟れると考えた。師からの質問を何というか。
- 公案
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- 武士は地位を守るために武芸を習得する必要があった。必要に応じて1つの的の位置・大小を変化させ、それを疾走する馬上から射抜く武芸の名称は何か。
- 笠懸
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- 法然の著書名は何か。
- 『選択本願念仏集』
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- 武士は地位を守るために武芸を習得する必要があった。犬を的にして、馬上から鏑矢を当てる武芸の名称は何か。
- 犬追物
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- 幕府は4代将軍に皇族を望んだが、後鳥羽上皇に拒絶された。そこで、頼朝の遠縁にあたる人物を将軍候補として鎌倉に招いた。招かれた人物は誰か。
- 藤原頼経
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- 草木を焼いて灰にした肥料の名称は何か。
- 草木灰
二毛作は地力(作物を育てる土地の栄養分など)をすぐに弱めるので、肥料による回復が必要である。
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- 末法思想を否定、日本仏教に大陸で主流の修行を加味することで、末法に動揺する現状を立て直そうした人物は誰か。
- 栄西
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- 鎌倉幕府の中央機構には、様々な機関があった。一般政務や財務事務にあたった機関の名称は何か。また、初代長官は誰か。
- 機関…政所初代…大江広元
当初の名称は「公文所」であった。
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- 平氏滅亡後の1185年、源頼朝は後白河上皇から様々な権利を得た。軍事・治安維持を目的に、諸国に原則1人置かれた役職の名称は何か。
- 守護
当初の設置目的は源義経の追討であった。
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- 北条泰時が設けた「裏の執権」とも言える役職の名称は何か。この役職は執権を補佐した。
- 連署
初代は北条時房であった。
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- 東大寺再建にあたって、重源が採用した建築様式の名称は何か。
- 大仏様
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- 元弘の変後、天皇の流刑先になった場所は、次のア~エのうちでどれか。また、その地名は何か。
- 記号…B、地名…隠岐
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- 時宗の中心寺院はどこか。
- 清浄光寺
神奈川県に立地する。
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- 南都六宗のうち律宗の僧で、思円とも称した人物は誰か。
- 叡尊
西大寺の復興に尽力した。
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- 新補率法が適用された地頭の名称は何か。
- 新補地頭
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- 元弘の変後、持明院統から即位した天皇は誰か。
- 光厳天皇
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- 琵琶を弾きながら、『平家物語』を語る音楽の名称は何か。
- 平曲
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- モンゴル帝国の第5第皇帝は誰か。
- フビライ=ハン
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- 尊円入道親王が創始した書風の名称は何か。
- 青蓮院流
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- 「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という文で知られる、親鸞の教えの名称は何か。
- 悪人正機(説)
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- 後醍醐天皇の即位時、執権の地位にあった人物は誰か。
- 北条高時
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- 似絵の名手として有名な藤原氏の父子は誰か。
- 藤原隆信・信実
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- 南都六宗のうち華厳宗の僧で、高弁とも称した人物は誰か。
- 明恵
『摧邪輪』を著して、法然の『選択本願念仏集』に反論した。
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- 平安時代後期から民間で技術者集団が活躍するようになった。同業者同士で特権を認め合うために結成した団体の名称は何か。
- 座
排他的な集団で、新興を妨げた。後に戦国大名たちは、「楽市」などで排他的性格を緩和させた。
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- 1284年に得宗となった北条時頼の子は誰か。
- 北条貞時
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- 幕府から離反し、鎌倉を攻めて北条高時以下北条氏を滅亡させた人物は誰か。
- 新田義貞
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- 承久の乱で上皇軍を破った幕府は、即位中の天皇を廃し、また3人の上皇を流刑に処した。3人の上皇のうち、後鳥羽上皇の流刑先はどこか。
- 隠岐
後鳥羽上皇…隠岐土御門上皇…土佐(のちに阿波)順徳上皇…佐渡仲恭天皇…廃帝
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- 北条時政に擁立されて、3代将軍になった人物は誰か。
- 源実朝
文化面に没頭して『金槐和歌集』を編纂した。
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- 武力に訴えて荘園領主に抵抗する者が登場した。幕府が付けた彼らの呼称は何か。
- 悪党
御家人・非御家人問わず、世を乱す者を幕府は「悪党」と呼んだ。
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- 栄西は教えを布教するにあたり、幕府を頼った。その一環として源実朝に献呈した書の名称は何か。
- 『喫茶養生記』
栄西が宋で学んだ茶と薬についての本である。
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- 1180年、安徳天皇の即位により、反平氏の気運が高まった。後白河上皇の子で諸国の源氏に挙兵を呼びかけ、自身もまた挙兵を試みた人物は誰か。
- 以仁王
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- 源頼朝の死後、2代将軍となった人物は誰か。
- 源頼家
先走った考えをもち、御家人から反発を受けた。頼家は権限を制限され、有力御家人13名の合議で裁判の裁決がなされた。
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- 法然の教えを継ぐ宗派の名称は何か。
- 浄土宗
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- 1274年、元は高麗の兵をあわせた約3万人の兵で、九州北部を襲った。元による1度目の襲来の名称は何か。
- 文永の役
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- 平氏の興亡を題材とする軍記物語の名称は何か。
- 『平家物語』
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- 浄土真宗の中心寺院はどこか。
- 本願寺
京都に立地する。
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- 守護の基本的な職権の総称は何か。
- 大犯三ヵ条(京都大番役の催促、謀叛人の逮捕、殺害人の逮捕)
これらは御成敗式目で成文化された。
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- 院政期に発展した絵巻物は、鎌倉時代においても多く描かれ続けた。北野天満宮の由来を、菅原道真の生涯とともに伝える絵巻物の名称は何か。
- 『北野天神縁起絵巻』
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- 武士は身分(御家人)・職権(地頭)を踏み台に、荘園領主への納税をしばしば怠った。滞納への1つの妥協策として、荘園領主が地頭に一切の荘園管理権を譲ね、かわりに一定の年貢納入を約束させることの名称は何か。
- 地頭請
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- 荘園公領制が進むと、交通の要所、寺社の門前に定期的に市場がひらかれた。この市場の名称は何か。
- 定期市
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- 以仁王の令旨をうけて、諸国の源氏は次々と挙兵した。信濃国木曾に住み、1180年に挙兵を試みた人物は源氏の誰か。
- 源義仲
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- 日蓮宗の中心寺院はどこか。
- 久遠寺
山梨県に立地する。
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- 地頭請でも滞納が続く場合、荘園を「荘園領主の支配する荘園」「地頭の支配する荘園」とに分割して、相互に干渉しないことにした。この妥協策の名称は何か。
- 下地中分
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- 主従関係を結んだ時、将軍が御家人から得る利益の名称は何か。
- 奉公
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- ひたすら坐禅に打ち込むことの名称は何か。
- 只管打坐
「只管(しかん)」は「ひたすら」とも読む。
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- 後醍醐天皇が理想とした、醍醐・村上天皇の治世は何と呼ばれたか。
- 延喜・天暦の治
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- 元弘の変後、天皇側・幕府側の戦いが続いた。天皇側で奮闘した後醍醐天皇の皇子は誰か。
- 護良親王
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- 藤原将軍(摂家将軍)の次には皇族が将軍となった。皇族出身の将軍は何と呼ばれたか。
- 皇族将軍
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- 持明院統の財政基盤となった荘園群の名称は何か。
- 長講堂領
後白河法皇の創建した長講堂の所領で、これが持明院統に継承された。
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- 源義仲が都で孤立していくなか、源頼朝は後白河上皇との交渉で宣旨を得た。この宣旨の名称は何か。
- 寿永二年十月宣旨
当時、争乱や飢饉によって朝廷への税納入が滞っていた。朝廷は頼朝に税納入を保証させる代わりに、東国の実質的な支配を認めた。
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- 霜月騒動で有力御家人を滅ぼした御内人代表は誰か。また、御内人代表の名称は何か。
- 代表者…平頼綱御内人代表…内管領
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- 新補率法が適用されない地頭、あるいは従来の地頭の名称は何か。
- 本補地頭
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- 大陸から朱子学が伝わり、特に後醍醐天皇に影響を与えた思想の名称は何か。
- 大義名分論
君臣の間には、守るべき秩序があるという思想である。
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- 武士が先祖伝来の土地に構えた住居の名称は何か。
- 館
堀・柵を有して、砦の役割も果たした。
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- 1185年、長門国で源氏が平氏を滅亡させた戦いの名称は何か。
- 壇の浦の戦い
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- 幕府創設以来の有力御家人が病没するなかで勢力をのばした、北条政子の父にあたる人物は誰か。
- 北条時政
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- 鎌倉幕府の中央機構には、様々な機関があった。訴訟や裁判事務にあたった機関の名称は何か。また、初代長官は誰か。
- 機関…問注所初代…三善康信
問注所のみ長官名が異なる。これは裁判の裁決権が長官ではなく、将軍にあったからである。
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- 自然と自身の旅を詠んだ西行による歌集の名称は何か。
- 『山家集』
西行は藤原定家と交流あった。もと北面の武士で、出家して諸国を遍歴した。
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- 突然の元の撤退により難を逃れた幕府が、博多湾沿いに構築した防御用設備の名称は何か。
- 石築地(防塁)
石塁とも呼称
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- 鎌倉時代末期に、鎌倉幕府が編纂した歴史書の名称は何か。
- 『吾妻鏡』
東は「あづま」と読まれ、当て字として「吾妻」が当てられた。東(鎌倉)の過去を映し出すもの(鏡)という意味である。
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- 北条時頼の要請で、息子である宗尊親王を皇族将軍とした上皇は誰か。
- 後嵯峨上皇
宗尊親王の将軍就任は、1252年である。
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- 北条義時は侍所別当と政所別当を兼務するようになった。代々北条氏で世襲されていった、侍所別当と政所別当を兼務する地位の名称は何か。
- 執権
執権が中心となった幕府の政治を「執権政治」という。
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- 日蓮は禅・念仏を邪宗の教えと考え、これを信仰すると外敵侵入と内乱が起こると予言した。
予言を伝えるために、北条時頼に提出された文書の名称は何か。
- 『立正安国論』
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- 禅宗寺院に用いられた建築様式の名称は何か。
- 禅宗様
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- 1221年、後鳥羽上皇は北条義時追討の兵をあげた。これによって起きた乱の名称は何か。
- 承久の乱
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- 当時、荘園領主のもとで効力をもった法の名称は何か。
- 本所法
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- 度会家行が著した書の名称は何か。
- 『類聚神祇本源』
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- 福原京から平安京に戻った後、反平氏の興福寺・東大寺が焼打ちされた。焼打ちをおこなった人物は平氏の誰か。
- 平重衡
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- 1181年、南都焼打ちをおこなった人物は誰か
- 平重衡
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- 鎌倉時代、全国での貨幣流通に応えて、日本でよく利用されるようになった銭貨の総称は何か。
- 宋銭
宋銭は日宋貿易の主な輸入品であった。当時、日本では貨幣鋳造をおこなっておらず、皇朝十二銭(和同開珎~乾元大宝)は村上天皇の時代に終了した。
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- フビライ=ハンはモンゴル帝国の国号を何と改めたか。
- 元
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- 釉を用いる中国の製法が伝わり、尾張でひらかれた焼き物の名称は何か。
- 瀬戸焼
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- 1213年、北条義時は和田義盛を討った。義盛の生前の役職と、討たれた戦いの名称は何か。
- 役職…侍所別当戦い…和田合戦
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- やがて北条貞時が平頼綱を滅ぼすと、執権を務める得宗1人に幕府の権力が集中した。得宗1人が実権を握る政治の名称は何か。
- 得宗専制政治
執権政治では合議制を重んじた。得宗専制政治では得宗の独断によるところが大きい。
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- 武士の成長とともに、刀剣の製作が盛んになった。鎌倉の名工として知られる人物は誰か。
- 岡崎正宗
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- 北条時政は源実朝の擁立後に、ある機関の長官に就任した。この役職の名称は何か。
- 政所別当
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- 専門歌人である藤原定家らに勅撰和歌集を編ませた上皇は誰か。
- 後鳥羽上皇
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- 院政期に発展した絵巻物は、鎌倉時代においても多く描かれ続けた。題材は2人の兄弟の対照的な物語で、地方武士の生活を描く絵巻物の名称は何か。
- 『男衾三郎絵巻』
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- 1331年、再び討幕の計画が露見し、天皇側が挙兵した事件の名称は何か。
- 元弘の変
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- 北条泰時は合議制を確立するために、執権と連署に加えて、11人の有力御家人をある役職に任命した。この役職の名称は何か。
- 評定衆
執権・連署・評定衆の計13名で構成される会議を「評定」という。評定で裁判の裁決をした。
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- 曹洞宗の中心寺院はどこか。
- 永平寺
福井県に立地
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- 栄西の教えを継ぐ宗派の名称は何か。
- 臨済宗
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- 以仁王の令旨をうけて、諸国の源氏は次々と挙兵した。平治の乱後、伊豆国に流罪となり、1180年に挙兵を試みた人物は源氏の誰か。
- 源頼朝
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- 度会家行が生み出した神道の名称は何か。
- 伊勢神道
なお、この神道では、豊受≧天照という立場が主張される。
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- 御恩の1つで、先祖伝来の土地の所有を保障してもらうことの名称は何か。
- 本領安堵
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- 父の所領を子全員が相続することの名称は何か。
- 分割相続
当時、女性の地位は比較的高く、相続の際も男性と同じく分配にあずかった。分割相続のために、次第に武士の収入は減って窮乏した。
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- ハンセン病者のために、忍性が建てた救済施設の名称は何か。
- 北山十八間戸
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- 服属後の高麗で、1270~73年に起きた反乱が起き、鎮圧後も反乱が続いていた。元は3度目の日本遠征を計画したが、これを背景に延期され、ついにはフビライの死をもって中止された。1270~73年に、高麗で生じた反乱の名称は何か。
- 三別抄の乱
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- 彫刻の分野では、寄木造を大成した定朝の流れを引き、名前に「慶」をもつ者たちが活躍した。運慶・快慶らが制作し、東大寺南大門に安置されている彫刻の名称は何か。
- 金剛力士像
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- 後深草上皇の血統の名称は何か。
- 持明院統
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- 浄土宗の教えをさらに深め、信不信・浄不浄を問わずに念仏を唱えれば往生できると考えた人物は誰か。
- 一遍
法然の浄土宗では、阿弥陀如来への信心をもって念仏に専念する。この点において、浄土宗と時宗は大きく違う。
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- 法然の教えを受けたが、念仏に先んじて、人間の内実を徹底的に凝視することを重視した人物は誰か。
- 親鸞
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- 北条時政の子は、父から政所長官の地位を継いだ。この人物は誰か。
- 北条義時
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- 鎌倉時代末に成立した日本仏教の歴史世の名称は何か。
- 『元亨釈書』
著者は虎関師錬である。
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- 主従関係を結んだ時、御家人が将軍から得る利益の名称は何か。
- 御恩
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- 皇位継承の争いを解消するため、持明院統・大覚寺統の両統が交代で皇位につくことを何というか。
- 両統迭立
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- 日本古来の山岳信仰が密教と結びつき、鎌倉時代に入ると1つの宗教としてまとまりをもった。この宗教の名称は何か。
- 修験道
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- 当初、幕府側の指揮官であったが、途中離反して京都の六波羅探題を攻め落とした人物は誰か。
- 足利高氏
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- 安徳天皇の次に即位した天皇は、上皇となって院政を初め、次第に朝廷の政治を立て直していった。この上皇は誰か。
- 後鳥羽上皇
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- 写実的な技術が発展して、肖像画が発達した。肖像画のなかでも、特に記録画の類の名称は何か。
- 似絵