イギリス革命と議会主権の確立
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概要
イギリスのエリザベス1世が亡くなると、ステュアート家出身でイングランド王のジェームズ1世が王位を継承しました。ジェームズ1世は、国王と議会の協力というイギリスの伝統を無視して、王権神授説を唱えました。以降、国王と議会の対決路線は、革命による絶対王政の崩壊まで続きました。
重商主義の変遷
重商主義
16~18世紀、ヨーロッパ諸国が富を増大させようした政策を重商主義と総称します。
初期の重商主義
16世紀、金銀が富であるという考えに基づき、その獲得を目指す政策「重金主義」が採られました。
次期の重商主義
輸出を促進して輸入を制限し、その差額で金銀・貨幣の蓄積を目指す政策「貿易差額主義」が採られました。
この政策のもとでは自国製品のための国外市場が必要です。
そのため、イギリス・フランスなどは植民地を求め、ヨーロッパ・アメリカ・アジアで争いました。
17世紀後半、フランスのルイ14世 は、財務総監にコルベール を登用し、重商主義政策を推進しました。
ルイ14世は、各地にマニュファクチュアを創設し、製品輸出で国庫の収入を増加させようとしました 。
17世紀半ばのイギリス革命後、商工業者の政治的発言力が増しました。
商工業者の求める保護政策が実現されていきました。
イギリスの共和政
農村での分化
中世末期から、イギリスの農村では次の分化が生じました。
- ジェントリ没落した騎士や有力農民が地方の地主階級となり、地方行政や議会で活躍
- ヨーマン領主の身分的束縛から解放された自営農民
- 零細農民土地をもたない住み込み農民
ピューリタン革命
ジェームズ1世の治世
1603年、ステュアート家出身のジェームズ1世がイギリスの王位を継ぎました。
ジェームズ1世は、神から授かった王権は人民に拘束されないという王権神授説 を唱えました。
ピューリタンは、国王の次の行為を批判しました。
- 議会を無視して新税を取り立てていること
- 少数の大商人に独占権を与えていること
スチュアート朝
1629年、チャールズ1世は議会を解散し、以後11年間議会を開きませんでした。
1640年、チャールズ1世はスコットランドの反乱対応のために議会を開き、対立するとすぐに解散しました(短期議会)。
しかし1640年秋には、財政上の必要から再び議会を招集しました(長期議会)。
議会は王党派と議会派に分かれて対立しました。
議会派
国王と徹底的に戦おうとする独立派と、穏健的に立憲王政を目指す長老派に分裂
1642~49年、ピューリタン革命
49年、ピューリタン革命 王党派 と議会派 の間で起こった内戦
独立派
議会派の一派で、長老が管理する教会の在り方を否定し、信徒によって独立して運営されるべきと主張

クロムウェル
- 絶対王政の終了
- 資本主義経済の発展を妨げる特権商人の独占権を廃止
- 市民層の立場を向上(=市民革命の側面)
クロムウェルの政策
独立派のクロムウェルは、議会派の中で財産権と参政権の平等を掲げた水平派を弾圧しました。
また、クロムウェルは、王党派の制圧に乗じてアイルランド ・スコットランドを征服しました。
特にアイルランドでは、土地没収が強行され、事実上の植民地化が進みました。
17世紀、英蘭戦争
英蘭戦争航海法が原因となって起こった戦争
イギリス議会政治の確立
王政復古
クロムウェルの独裁
1653年、クロムウェルは終身の護国卿となり、厳格な軍事的独裁体制を敷きました。
これに対して、国民の不満が高まりました。
チャールズ2世の治世
クロムウェルの死後 、チャールズ1世の子チャールズ2世が王となり、共和政から王政に戻る王政復古 が起こりました。
チャールズ2世は、専制的な態度でカトリックを擁護し、議会と対立しました。
議会はチャールズ2世に対抗し、次の法律を定めました。
- 1679年、人身保護法不当な逮捕や投獄を禁止する法律
名誉革命より前に、次の二大政党がイギリスに生まれていました。
- トーリー党国王の権威を重視
- ホイッグ党(ウィッグ党)議会の権利を主張
スチュアート朝~ハノーヴァー朝
1688~89年、名誉革命
89年、名誉革命流血・混乱なく、ジェームズ2世を退位に追い込んだ革命
ウィレム3世の治世
1689年、権利の章典
、権利の章典議会主権を法文化したもの
大ブリテン王国の成立
アン女王の治世
1707年、メアリ2世の妹アン女王 の治世下、イギリスとスコットランドが合同し、大ブリテン王国 が成立しました。
ハノーヴァー朝の始まり
ジョージ1世の治世
アン女王の死後、遠縁のジョージ1世が王位に就き、ハノーヴァー朝 を開きました。
現在のウィンザー朝の直接の祖
1721年、ホイッグ 党のウォルポールが首相となりました。
この首相のもとで、内閣が議会に対して責任を負う責任内閣制 が始まりました。
ハノーヴァー朝
