大戦後の民族運動の展開
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概要
第一次世界大戦後、各国の植民地では民族運動が高まりました。インドでは、イギリスによる抑圧がおこなわれましたが、ガンディーらが「塩の行進」などで反抗を続けました。完全な独立ではありませんでしたが、新インド統治法で各州の自治制が導入されました。以降もインドでは独立を目指す運動が継続されます。東南アジアやアフリカの国々でも、各指導者のもとで民族運動が広がり、独立が目指されました。
インドの民族運動
高まる民族運動と抑圧の強化
第一次世界大戦中、イギリスはインドの戦争協力を得るために、将来の自治を約束しました。
大戦後、イギリスは次のことで約束を果たしつつも、高まった民族運動を抑圧しました。
- 1919年、インド統治法大戦中の約束とはかけ離れ、制限付きで州行政の一部をインド人に委ねた法
- 1919年、ローラット法インド人に対する令状なしの逮捕、裁判抜きの投獄を認めた法
アムリットサール事件
サール事件ローラット法に反対する人々にイギリス軍が発砲し、多くの死傷者を出した事件
ガンディーの登場と運動の挫折
1915年、南アフリカで人種差別と闘った ガンディーがインドに帰国し、イギリスに抵抗する民衆の指導者となりました。
ガンディーは一貫して非暴力・不服従運動(サディヤーグラハ )を唱えました。
また、ガンディーはインド国民会議派を指導し、ローラット法に反対する非暴力・不服従運動を組織しました 。
しかし、ガンディーの思想に反して農民による警官殺害事件が発生し、運動は中止されました。
民族運動は混乱し、イスラーム教徒は反インド国民会議派・親英路線を歩みました。
民族運動の再燃
1927年、新インド統治法を制定する憲政改革調査委員会(サイモン委員会)にインド人が含まれていなかったため、民族運動が再燃しました。
1929年、インド国民会議派がネルー の下で、プールナ=スワラージ (完全独立)の要求を決議しました。
1930年、民族運動の再燃の中、ガンディーはイギリスの塩専売に反対する抗議行動「塩の行進 」をおこないました。
塩の行進
イギリスから塩を購入せず(専売制を無視し)、海岸までの360㎞を行進して塩を手作りした抗議行動

塩の行進
1930~32年、英印円卓会議
32年、英印円卓会議 サイモン委員会の報告を受けて、イギリスがロンドン で開催した会議
サイモン委員会
員会インド統治法の現状を調査・報告するための委員会
各州自治の開始
1935年、新インド統治法
、新インド統治法 インド各州の自治制を導入した法
1937年、新インド統治法の下で州選挙が実施され、国民議会派が多くの州で政権を獲得しました。
イスラーム教徒が多い州では、全インド=ムスリム連盟が選挙に勝利しました。
少数派となった全インド=ムスリム連盟は、イスラーム国家パキスタンの建設を目標に掲げました。
東南アジアの民族運動
オランダ領東インド(インドネシア)
1927年、スカルノ がインドネシア国民党 を結成し、オランダからの独立運動を指導しました。
フランス領インドシナ(ベトナム)
1925年、ホー=チ=ミン がベトナム青年革命同志会を結成し、フランス からの独立運動を指導しました。
1930年、ベトナム青年革命同志会を母体に、ベトナム共産党が結成されました。
イギリス領ビルマ(ミャンマー)
第一次世界大戦後 、タキン党 がビルマ (ミャンマー)でイギリス支配に対する独立運動を主導しました。
アメリカ領フィリピン
1907年、フィリピンで議会が開設され、フィリピン人への立法・行政の権限委譲が進められました。
一方、アメリカに依存した商品作物の生産が進み、窮乏化した農民が反乱を繰り返しました。
アフリカの民族運動
アフリカ民族会議
20世紀初頭までに、アフリカのほぼ全ての領域が植民地にされました。
1912年、アフリカ民族会議 (ANC)
、アフリカ民族会議 (ANC)南アフリカで創設され、人種差別の撤廃を要求

アフリカの植民地化(1914年)
パン=アフリカニズムの動きとして、次の会議が開催されました。
- 1900年、パン=アフリカ会議ロンドンで開催された、植民地主義と人種差別への反対を訴えた会議
- 1919年、パン=アフリカ会議パリで開催された、アフリカ植民地の段階的な自治獲得の決議をまとめた会議
