諸法典と条約改正

表記について
概要
大日本帝国憲法や諸法典の発布・施行と並行して、政府は条約改正の交渉を続けていました。欧米諸国のうちに好意的な国が現れたものの、イギリスが改正に反対し続ける限り、「最恵国待遇」の効力で改正できませんでした。しかし、ロシアの南下政策が東アジアで進むと、危機感を抱いたイギリスは、日本への態度を軟化させました。

諸法典の整備

皇室関係の法典

1889年、皇室典範こうしつてんぱん制定
大日本帝国憲法と同時に制定された皇室関係の基本法典
皇位の継承、天皇・皇族に対する犯罪、内乱罪の厳罰化などを規定
皇室典範
民衆が干渉するものではないと公布なし(通常、政府機関紙『官報』で公布)

フランス流の諸法典

政府は、フランス人ボアソナードが起草した民法・刑法と、ドイツ人ロエスレルが起草した商法を1880~90年に公布した。
しかし、これらのうち民法は、公布以前から一部の法学者に批判されていました。

ボアソナード

民法典論争

ボアソナードの民法は、個人主義を重んじ、日本の伝統的な倫理に適しませんでした。
民法の公布後、民法典論争と呼ばれる論争が本格化し、次の法学者が戦いました。

穂積八束

梅謙次郎
民法は、施行までに数年の周知期間を設けてあり、論争を受けて、1892年の第三議会で、商法とともに修正前提の施行延期が決まりました。
新民法が、1896年・1898年の2回に分けて公布され、1898年に施行されました。
以上の結果、新民法では、次のような日本の伝統的な倫理が維持されました。

条約改正交渉の決着

条約改正④

井上馨の後任の外相大隈重信は、条約改正に好意的な国から個別に交渉しました。
アメリカ・ドイツ・ロシアとの間に、改正条約を調印しました。
しかし、最高裁判所に相当する大審院だいしんいん に限り、外国人判事の任用を認めたため、激しい反対運動が起こりました。

大隈重信
1889年、大隈重信が対外硬派の団体玄洋社げんようしゃの青年来島恒喜くるしまつねきに負傷させられました。
大隈重信の負傷で、条約改正交渉は中断されました。

ロシアの南下政策と日英の対応

19世紀後半、ロシアは不凍港ふとうこうを求め、東アジアでの南下を進めました。
1891年、ロシアがシベリア鉄道敷設に着工すると、イギリスはロシアへの警戒を一気に強めました。
ロシアがさらに不凍港を求め、朝鮮半島に南下を進めると、日本もいずれ危機に陥ると懸念されました。

19世紀後半の東アジア

シベリア鉄道の敷設

イギリスの対応―日本への接近

イギリスは、日本に好意を示し、ロシアへ抵抗する味方にしようとしました。
条約改正に最も反対するイギリスが方針を変え、交渉に好機が到来しました。

日本の対応―朝鮮への期待

日本は、朝鮮の文明化とそれによる同国・自国の安全を望みました。
しかし、朝鮮はを宗主国とし続け、旧態依然としていました。

条約改正⑤

1891年、外相青木周蔵しゅうぞう は、イギリスの態度軟化を見て、イギリスと領事裁判権の撤廃を交渉し始めました。

青木周蔵
1891年、大津おおつ事件
訪日中のロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、訪日を侵略のための調査と考えた巡査津田三蔵さんぞうに切りつけられた事件
ロシアとの関係悪化を恐れる日本政府は、津田三蔵の死刑を要請しましたが、大審院長児島惟謙 こじまこれかたが要請に反対して「司法権の独立」を遵守

人力車に乗るニコライ
事件は、政府の陳謝で収拾しましたが、青木周蔵の引責辞任で交渉は中止されました。

条約改正⑥と領事裁判権の撤廃

1894年、外相陸奥むつ宗光むねみつ は、条約の一部改正という条件で交渉しました。
対外硬派連合は、条約の一部のみの改正を許さず、全面改正を主張しました。
陸奥宗光は、自由党の支持によって反対派の声を抑えました。

陸奥宗光
1894年、日英通商航海条約調印
日清戦争の直前、日本とイギリス間で結ばれた改正条約
1897年までに、他の欧米諸国とも同様の改正条約を調印

条約改正⑦と関税自主権の回復

1911年、外相小村寿太郎じゅたろうは、関税自主権の完全回復を達成しました。
日本は、欧米諸国と条約上での対等の地位をようやく獲得しました。

小村寿太郎