概要
朝鮮半島を狙うロシアの動きは、日本に危機感を与えました。一方、朝鮮は清の属国という現状に甘んじ、対応策を講じませんでした。日本は朝鮮を清から独立させようと日清戦争を始めました。日清戦争では、西洋の見守るなかで日本が清と違って「文明国」であるかが試されました。その意味で、日清戦争は「文明国の入学試験」でもありました。
日清戦争
日本と清の武力衝突
1894年、
甲午農民戦争(東学の乱)
東学の信徒・農民が、閔氏政権の圧政に対して起こした反乱
閔氏政権は清に出兵を要請し、天津条約に従って通知された日本も出兵
鎮圧後、日清両軍が撤兵せず、日本は大院君を擁立して“親日派”政権樹立
東学
キリスト教(西学)に対する朝鮮の新興宗教の呼称
“親日派”の大院君政権
1894年7月~1895年、
日清戦争
大院君政権に清軍追放を依頼させた日本が、清に攻撃して始まった軍事衝突
開戦後、日本の議会の紛糾は止み、議会が戦争関係の予算・法律案を承認
戦局は、軍事訓練・規律・兵器で勝る日本の圧倒的優勢で展開
局地戦①豊島沖海戦:日清戦争最初の海戦
局地戦②黄海海戦:日本連合艦隊が清の北洋艦隊を撃破した海戦
日清戦争
戦費は約2億円余りで、当時の国家歳入の約2倍強
日清戦争
北洋艦隊の主力艦「鎮遠」
開戦に臨んだ背景
1894年7月、
日英通商航海条約締結
日清戦争の直前、日本とイギリス間で結ばれた改正条約
清への進出を図るイギリスが、日清間の戦争には介入しないことを意味
文野の戦争―「日本=文明国」の強調
内村鑑三
福沢諭吉
講和条約
1895年、
下関条約締結
日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清全権李鴻章
が結んだ日清戦争の講和条約
- 清が朝鮮の宗主国であることを否定し、その独立を承認
- 遼東
半島・台湾・
澎湖
諸島を日本に譲与
- 賠償金2億両(清の国家予算3年分で約3億円)を日本に支払い
- 清が沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開港
伊藤博文
李鴻章
下関条約関連の地名
文明国への入学
「列強クラブ」への入会
*1897年のビゴーの作品