概要
日清戦争後、日本は腐敗・疲弊した朝鮮の内地改革・財政救済を急ぎました。しかし、朝鮮の政府は内部対立を続け、反日親露を掲げた閔妃らが、隙を突いて政権を奪い返しました。そして、懐柔不可能となった閔妃が殺害されると、日本は欧米列強からの非難をかわすため、朝鮮に対する政策を放棄してしまいました。
日清戦争後の清
大国の圧力と対ロシアの敵意
1895年、三国干渉
ロシア・ドイツ・フランスが、日本に遼東半島を清へ返還するように勧告した事件
日本は、3大国の圧力に屈し、勧告を受け入れて返還しました。
日本は、標語「臥薪嘗胆
」で国民の対ロシアの敵意を増大させ、軍備の拡張に努めました。
朝鮮への影響を競う日露と見守る英
ドイツ主体の三国干渉―黄禍論
1895年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、白色人種に対する黄色人種の脅威を説きました。これを「黃禍論
」と呼び、政治的意図から出た主張でした。地理的に黃禍阻止の最適位置にロシアがあり、阻止の前衛を果たすべきことを述べて、ロシアの東アジア進出を煽
り、また、東アジアでイギリスと対立させる。これにより、バルカン半島におけるロシアの脅威を減殺
し、ドイツが進出する。このような構想の具体的実行が三国干渉でした。よく誤解されますが、三国干渉の主体はドイツでした。
進む中国分割
清は、日本への賠償金支払いを欧米諸国に頼りました。
欧米列強は、貸与の担保として清の領土を「租借(一定期間の領土借用)」しました。
諸外国による中国分割
中国分割
アメリカの伝統の棄却
1823年、アメリカ大統領モンローは、ヨーロッパ諸国に対して、相互の不干渉を要求するモンロー宣言をおこないました。
アメリカは、モンロー宣言を外交の伝統として発展しましたが、中国進出には遅れました。
1899年、国務長官ジョン=ヘイはモンロー宣言を捨て、中国へ先に進出した欧米列強に対して次の宣言をおこないました。
- 門戸開放
中国における商業活動の自由
- 機会均等
中国における参入機会の均等化
モンロー大統領
ジョン=ヘイ
北京駐兵とロシアの満州占領
1899~1900年、
義和団事件
清の宗教結社義和団が、欧米列強の中国分割に反発し、標語「扶清滅洋」を掲げて外国人排斥に臨んだ一連の事件
義和団の兵士
1900~1901年、
北清事変
義和団事件による各国公使館の包囲と、便乗した清の各国への宣戦に、英・米・日・仏・露・独など8ヵ国連合軍が出兵したこと
連合軍
(左から順に、英・米・露・
英領印・独・仏・墺・伊・日)
1901年、
北京議定書調印
北清事変で降伏した清が、日本を含む出兵国と結んだ協約
公使館護衛のために各国軍隊の北京駐兵を承認
北清事変中のロシア
北清事変の際に、ロシアは義和団からの東清鉄道保護を口実に、満州全域を不当に占拠しました。
満州
清の東北部の名称で、ロシアはその一部を清から獲得し、1898年に東清鉄道を敷設
満州
(色塗り部分)
日清戦争後の朝鮮と台湾
朝鮮の独立と“親露派”政権
1895年の下関
条約締結で、朝鮮が清から独立しました。
朝鮮では、日清戦争での清の敗北や三国干渉での日本の弱体を見て、閔氏らがロシアに接近して大院君から政権を奪いました。
閔妃政権の復活
1895年、
閔妃殺害事件
日本公使三浦梧楼が、朝鮮の王妃閔妃の殺害を指揮し、大院君を再度擁して“親日派”政権樹立を図った事件
事件後、国王高宗がロシア公使館に逃れ、“親露派”政権樹立
閔妃暗殺と親露政権
閔妃
1897年、“親露派”政権は、朝鮮が独立国であると示すために、国号を大韓帝国と改め、高宗が皇帝に即位しました。
大韓帝国
「~国」を属国、「~帝国」を独立国と見なす中国の伝統に由来
高宗
台湾の統治
遼東半島の返還後、日本は新たに領有した台湾の統治に力を注ぎました。
1895年、樺山資紀が台湾総督府の初代台湾総督に就任しました。
樺山は、軍政をしいて島民の抵抗を武力で鎮圧しましたが、一部の抵抗は続きました。
台湾総督府
樺山資紀
1898年以降、第4代台湾総督児玉源太郎の下で、後藤新平
が次のことで統治体制を整備しました。
- 土地調査事業
- 鉄道の敷設
- 台湾銀行や台湾製糖会社の設立
後藤新平