概要
日清戦争後、朝鮮の政府が反日親露に転じ、日本はロシアの脅威に直面する事態を迎えました。また、清の敗北を契機として、欧米列強がアジア進出を活発化させました。そのため、日本は欧米列強なみの軍事力増強を、戦後経営の最大の課題として背負うこととなりました。しかし、戦中に一致を見た内閣と政党も、対立を再開していました。
憲政党の結成
内閣と政党の提携
第2次伊藤博文内閣|1892年8月~96年9月
1894~95年の日清戦争は、奇しくも内閣と政党の関係を一変させました。
第2次伊藤博文内閣は、自由党と提携し、板垣退助を内相として迎えました。
また、自由党は帝国議会で軍備拡張予算の成立に協力しました。
第4回総選挙
第2次松方正義内閣|1896年9月~98年1月
第2次松方正義
内閣は、1896年に結成した進歩党と提携し、大隈重信を外相として迎えました。
第2次松方正義内閣は、各省の官僚にも進歩党出身者を迎えたため、松隈内閣とも呼ばれました。
進歩党
立憲改進党などの対外硬派連合が、国民協会抜きで結成
進歩党の結成
憲政党の結成
第3次伊藤博文内閣|1898年1月~98年6月
1898年、第3次伊藤博文内閣が成立しました。
第3次伊藤博文内閣は、地租増税を目指しましたが、政党と提携できませんでした。
そのため第3次伊藤博文内閣は、超然主義の立場をとりました。
第5回総選挙
この立場に対して、自由党・進歩党は合同し、憲政党を結成しました。
憲政党は、衆議院に多数の議席をもち、帝国議会で強い力を示しました。
第3次伊藤博文内閣は、議会を制する自信を失って総辞職しました。
憲政党の結成
政党内閣の試み
政党内閣の登場と早期の崩壊
第1次大隈重信内閣|1898年6月~98年11月
次の内閣では、首相に大隈重信が、内相に板垣退助が就任しました。
他の国務大臣も、陸・海軍大臣を除き、憲政党出身者が占めました。
従って、第1次大隈重信内閣は、政党を母体とする日本初の政党内閣であり、首相・内相の1字をとって隈板
内閣とも呼ばれる。
しかし、母体の憲政党内で旧自由党・旧進歩党が対立し、安定に欠いていました。
第6回総選挙
1898年、共和演説事件
文相尾崎行雄が、発言を天皇への不敬と攻撃された騒動
「仮に日本が共和制の国家なら、三井・三菱が大統領候補だ」と、金と政治の癒着
の批判に、天皇のいない共和制を想定したことで、不敬と攻撃できる格好の材料を提供
尾崎行雄
失脚した尾崎行雄の後任をめぐり、憲政党は次の2党に分裂しました。
母体の憲政党が分裂した結果、第1次大隈重信内閣は総辞職しました。
憲政党の分裂
政党内閣と政党への警戒
第2次山県有朋内閣|1898年11月~1900年10月
第2次山県有朋内閣は、憲政党と提携し、地租増税を実現しました。
一方、次の改正・制定によって、政党員が官僚になることを防ぎました。
- 1899年、文官任用令改正
1893年公布の文官任用令の改正で、勅任官(天皇の勅命による任命)も、自由任用から試験任用に変更し、文官になることを難化
- 1900年、軍部大臣現役武官制制定
現役の武官である大将・中将から、陸・海軍大臣を任用する制度
政党員が陸・海軍大臣になることを防ぎ、軍部に対する政党の影響を阻止
官僚
行政官である「文官」と、上位の軍人である「武官」に大別
内閣・各省(簡易)
文官・武官
文官任用
軍部大臣現役武官制
1900年、
治安警察法公布
台頭する社会主義・労働運動などを抑えるため、労働者の団結や女性・未成年の政治集会参加を禁止した法令
憲政党は一連の政策に反発し、政党結成を目指す伊藤博文に近づき、伊藤博文派の官僚とともに、伊藤博文を総裁とする立憲政友会を結成しました。
提携する政党が離反したことを受け、第2次山県有朋内閣は総辞職しました。
立憲政友会の結成
政党内閣の再登場と早期の崩壊
第4次伊藤博文内閣|1900年10月~1901年6月
1900年、立憲政友会を母体とする政党内閣として、第4次伊藤博文内閣が成立しました。
しかし、帝国議会において貴族院の反対に苦しみ、間もなく総辞職しました。
山県と伊藤の後継者
1901年、第1次桂太郎内閣が成立しました。
以後、山県の後継者桂太郎と、伊藤の後継者西園寺公望
が政界を二分しました。
山県・伊藤らは、非公式に天皇を補佐する元老として首相の選任権を掌握
桂太郎
西園寺公望