近代産業―重工業・農業

表記について
概要
1890年代、日本の重工業は脆弱でした。そのため、日本は鉄鋼の国産化を目指しました。1901年、八幡製鉄所が操業を開始し、清の大冶鉄山の鉄鋼石を原料に、鉄鋼を順調に生産しました。当時、大陸の植民地が食料・肥料の供給地として比重を高めていたが、重工業の原料供給の面でも日本と大陸の関係は強まっていました。

重工業

財閥の登場と炭鉱開発

1884年、工場払下げ概則の廃止で、官営事業払下げの条件が緩和されました。
官営事業は、軍事工場と鉄道を除き、次々と民間に売却されました。
政府から特権を与えられた資本家「政商」は、次の優良鉱山の払下げを受け、その開発に機械を導入して、石炭・銅の輸出を増やしました。
足尾銅山―政商古河市兵衛
三池炭鉱―政商三井
高島炭鉱・佐渡金山・生野銀山―政商三菱
政商は、鉱工業・運輸・貿易など事業を多角化し、「財閥ざいばつ」に成長しました。
高島炭鉱
雑誌『日本人』が労働者の悲惨な実態を告発
財閥
経営形態は、同一財閥による多分野の産業の支配コンツェルン
財閥の力が入り、筑豊ちくほう炭田は、日清戦争後に国内最大の産炭地となりました。
筑豊炭田
名称は筑前国・豊前国に由来

筑豊炭田

筑豊炭田の炭山
*図は香春岳

造船業

官営の長崎造船所が三菱に払下げられて、三菱長崎造船所となり政府の助成を受けつつ有力な民間造船所として発展しました。

戦艦「霧島」

製鋼業―重工業の基礎

重工業は、民間では三菱長崎造船所などに限られ、材料の鉄鋼も輸入に頼りました。
軍備拡張のため、政府は重工業の基礎である「鉄鋼の国産化」を目指しました。
日清戦争後の1897年に、官営の八幡やはた製鉄所が設立され、1901年、ドイツの技術を導入して操業を開始しました。
八幡製鉄所は、筑豊炭田の石炭、清の大冶たいや 鉄山の鉄鉱石を利用しました。
大冶鉄山の鉄鉱石は、清の製鉄会社漢冶萍かんやひょう公司コンス に資金を貸与し(借款しゃっかん)、 その見返りに安価で得ました。

八幡製鉄所

鉄鉱石と石炭
日露戦争後、政府の保護の下に、民間の重工業も発達し始めました。
民間の日本製鋼所が設立され、日本最大の兵器製鋼会社となりました。

鉄工業―機械を作る機械

1905年、池貝鉄工所は、先進国並みの精度をもつ旋盤せんばんを国産化しました。

旋盤

電力事業

水力発電の本格化で、大都市では電灯が普及しました。

農業

米作

工業に比べると、農業の発展はにぶく、依然として米の零細経営が多く見られました。
金肥の普及や、1896年設立の農事試験場による稲の品種改良で、土地当たりの収穫量は増加しましたが、人口の増加で米の供給は不足しました。

稲の収穫の変化

貿易と養蚕

農家では自家用の衣料の生産が減少し、また、安価な輸入品に押され、綿・麻・菜種などの生産が衰退しました。
一方、生糸きいと輸出の増加で、くわ の栽培や養蚕ようさん盛んになりました
養蚕
かいこを飼育し、まゆを生産すること

生糸輸出量の変化

地主の耕作離れ

1880年代の松方まつかた 財政でのデフレで、小作地の割合は増加し始めました。
1890年代も小作地は増え続け、零細農民が小作農へと転落していきました。
大地主は耕作から離れ、小作料収入に依存する寄生地主となりました。

小作地の増加
小作料は現物納、地租は定額金納であったため、米価の上昇で次の影響を与えました。
地主:収入が増加しても、地租の負担は定額で増えず、企業設立や投資に挑戦
小作農:地主から要求される小作料が増え、負担のみが増加を続け、副業や子女の工場への出稼ぎで家計を維持

小作料の増加
日露戦争後、地租や間接税が増加し、農業生産停滞と農村困窮が問題になりました。
政府は、1908年の戊申詔書ぼしんしょうしょ を理念に地方改良運動を始め、協同事業に成功した村を模範とし、その事例を全国に紹介しました。

輸出入と貿易赤字

日清戦争後の貿易収支

輸出では生糸・綿織物、輸入では原料綿花や軍需品・重工業資材が増加しました。
貿易収支は、大幅な輸入超過(赤字)でした。

1897年の貿易品目

貿易額の変化

日露戦争後の植民地

日露戦争後、日本経済に占める植民地の役割は、次の点で大きくなりました。
対満州:綿織物輸出、大豆かす輸入
対朝鮮:綿織物移出、米移入
対台湾:米・原料糖の移入
朝鮮・台湾は日本の植民地のため、輸出・輸入ではなく移出・移入