概要
日清戦争の賠償金を基礎にした積極的な金融政策に導かれて、綿糸の生産「紡績」・生糸の生産「製糸」などが顕著な発達を遂げ、貿易のあり方を対欧米・対アジアの二局面構成に変化させていきました。また、財政補助にも助けられて、海運業・鉄道業が伸張し、海陸の交通網を整備していきました。
紡績業―日本産業革命の中心
紡績の勃興
幕末以来、イギリス製綿製品の輸入に圧迫されて、日本における綿花の栽培や綿糸・綿織物の生産は一時衰えました。
しかし、綿織物生産は次の取り組みで次第に上向きました。
- 織物の原料に輸入綿糸を使用
- ジョン=ケイが発明した飛び杼を取り入れて手織機を改良
綿織物生産の上向きが、綿糸の生産(紡績)の勃興に繋がりました。
飛び杼
綿糸輸出の増加―日清戦争前後
手紡や臥雲辰致
が発明したガラ紡で綿糸が生産されました。
1882年に渋沢栄一らが設立した大阪紡績会社は、蒸気を動力としたミュール
紡績機による大規模経営に成功しました。
このような紡績機械を用いた工場が相次いで設立され、生産が拡大しました。
ガラ紡
内国勧業博覧会で最高賞を獲得し、改良後、愛知県を中心に普及
日清戦争前
1890年、綿糸の生産量が輸入量を上回り、中国・朝鮮への輸出が増えました。
日清戦争後
1897年、綿糸の輸出量が輸入量を上回りました(原料の綿花の輸入も増加)。
綿糸の生産と輸出入
綿織物輸出も増加―日露戦争後
紡績会社:輸入の大型力織機で綿織物を盛んに生産
農村:豊田佐吉
らが考案した国産の小型力織機の導入で、手織機による問屋制家内工業が機械生産の小工場に転換
1909年、綿織物の輸出額が輸入額を超えました。
豊田佐吉の力織機
依然とした原料の輸入
原料の綿花は、インド・中国・アメリカなどからの輸入に依存しました。
特に安価なインド産の輸入は多く、綿業に関する貿易は輸入超過でした。
綿糸の輸入先
製糸業―外貨獲得の中心産業
製糸の発達
幕末以来、生糸は最大の輸出品でした。
生糸の生産(製糸)は欧米向けの輸出産業として急速に発達しました。
製糸技術の発達
当初、簡単な手動装置による座繰製糸が普及していました。
輸入器械を改良した器械
製糸の小工場が、長野県・山梨県などのなどの農村地帯に続々と生まれました。
生糸の原料である繭を供給する養蚕農家も増加した。
輸出増加
日清戦争頃
器械製糸の生産量が、座繰製糸の生産量を上回りました。
生糸を原料とする絹織物の生産も盛んになり、力織機も導入されました。
日露戦争後
アメリカ向けを中心に、生糸輸出がさらに伸びました。
1909年、清を追い越し、日本は世界最大の生糸輸出国となりました。
座繰製糸と器械製糸
輸送業
海運業
綿花などの原料品や機械・鉄などの重工業製品の輸入が増加し、日本は大幅な輸入超過(赤字)でした。
貿易では、特殊銀行である横浜正金銀行や、三井物産会社などの商社が重要な役割を果たしました。
また、日本郵船会社が次の海運業奨励の法令に助けられ、インドへのボンベイ航路、欧・米・豪への遠洋航路を開きました。
ボンベイ航路
インド産の綿花の大量輸入を可能にした日本初の遠洋航路
日本郵船会社
三菱と半官半民の共同運輸会社の合併した会社
信濃丸(6388トン・11.9ノット)
日本郵船会社の貨客船で、日露戦争の際には徴用され、巡洋艦としての兵装を施されました。1905年の日本海海戦でバルチック艦隊を発見するという大勲功を立てました。「敵艦見ユ」の打電で知られます。
鉄道業
1881年、華族の出資で日本鉄道会社が設立されました。
政府の保護を受け、商人や地主による会社設立ブームが起こりました。
日清戦争前の1889年、東京・神戸間を官営の東海道線が全通したが、
民営鉄道は営業キロ数で官営を上回っていました。
1906年、
鉄道国有法公布
第1次西園寺公望内閣の時に公布
軍事的必要から鉄道輸送の画一化を目指し、鉄道を国有化した法令
国は民営鉄道17社を買収し、全国の鉄道の91%を国有化
鉄道の発展
*1906年の鉄道国有法で国有鉄道の急増
売却した者は、得た資金を重工業に投資していきました。