概要
日本が律令国家として成立した当時、社会はどのような様子だったのでしょうか。これを①東アジア②中央(都)③地方(国)、以上3つの視点から見ていきましょう。また同時に、当時の人々の往来に注目してみましょう。①の視点からは東アジアの人々の往来について、②③の視点からは中央と地方の人々の往来について取り上げます。
奈良時代の都―元明天皇の代
遷都
710年、藤原京から平城京に遷都しました。
平城京が都であった期間を奈良時代と呼びます。
藤原京と平城京
条坊制
平城京は、大路に囲まれる区画が碁盤状に並びました。
東西の区画の列を「1条、2条、3条…」と数え、南北の区画の列を「1坊、2坊、3坊…」と数えます。
平城京は、特定の区画を「○条×坊」と示す条坊制の都でした。
平城京
右京・左京・外京
市と銭貨
民衆や貴族・官吏が物を取引できる市を、右京と左京にそれぞれ置き、市司が監督するようにしました。
ただし、多種多様な物を取引する都で、物々交換は大変困難です。
「何か」に法的価値を与え、どんな物でもそれで交換すればよいと考えました。
物々交換
708年、武蔵国から銅が献上され、年号を和銅に改めるとともに、富本銭に続く和同開珎を鋳造しました。
しかし、売り手が和同開珎の価値を疑い、取引は成立しませんでした。
和同開珎
711年、蓄銭叙位令が発令され、一定の銭貨を納入すれば、位階を与えるようにしました。
和同開珎は価値を認められましたが、取引・流通は京や畿内に限られました。
12種の銭貨
銭貨偽造を防ぐため、10世紀までに計12種類の銭貨が次々と鋳造されました。
これら、和同開珎から乾元大宝
までの銭貨を本朝十二銭(皇朝十二銭)と総称します。
乾元大宝
東アジアの交流
遣唐使の再開
663年の白村江の戦い後、日本は唐・新羅と関係を回復しました。
ただし、国内改革に追われ、日本から唐への遣唐使派遣はしばらくありませんでした。
遣唐使船(復元模型)
702年、遣唐使が再開され、以降ほぼ20年に1度の割合で派遣されていきました。
717年、後に橘諸兄
に重用された玄昉
と吉備真備
や、玄宗(唐の皇帝)に仕えて一生を終えた
阿倍仲麻呂が派遣されました。
阿倍仲麻呂
遣唐使の航路変更
遣唐使の航路は、当初朝鮮半島西岸を進む北路をとりました。
7世紀末以降、日本と新羅の関係が悪化しました。
そのため、東シナ海を横断する南路をとるようになりました。
遣唐使の航路
渤海の朝貢
698年、靺鞨族と旧高句麗の民が渤海を建国しました。
渤海は新羅と対立したので、軍事上日本と友好関係を結びました。
渤海の使者は日本海を横断して日本海側に来着し、能登国の能登客院や越前国の松原客院に滞在しました。
この使者によって、朝鮮人参などがもたらされました。
渤海との交流
地方の国
国府の施設
国府(
国衙)
国内の役所、あるいはその所在地のこと
国庁(政庁)
国府内の、国司が政務・儀礼をおこなう場
国分寺
741年、聖武天皇が国分寺建立の詔を発して、諸国に建立した寺
国分寺
正式名称は「金光明四天王護国之寺
」
国分尼寺
正式名称は「法華滅罪之寺」
三河国国分寺跡
三河国国分尼寺跡
交通制度
国家が管理する2種類の道がありました。
- 官道
都と国府を結ぶ公用の道
- 伝路
国府と郡家、郡家と郡家を結ぶ道
都の命令は官道・伝路を通って伝えられました。
伝達者が休憩・交代、馬の交換をする場が必要でした。
官道では30里(約16㎞)ごとに駅家を設置して駅馬
を常備し、伝路では郡家に伝馬を常備しました。
駅家(駅)
駅馬の利用に必要な鈴