概要
軍事部門を主に担う貴族を「兵(軍事貴族)」と呼びます。平安時代の地方(平安京の門から一歩でも出た場所)は不便で粗野だが、実力次第でどこまでも活躍できる場が開けていました。摂関家の支配で、都での出世を望めない軍事貴族に、地方は大変魅力に富んでいました。まさに田舎も「住めば都」でした。
戦う貴族と仕える貴族
軍事部門を担う貴族
中・下級貴族のうち、軍事部門を担う者は兵(軍事貴族)と呼ばれました。
都での出世が望めない彼らには、次の2つの道が開かれていました。
- 朝廷との接触を減らしながら、辺境の地方に土着
- 都やその周辺に根拠地を置き、宮中警備・国司を務めて朝廷との関係を維持
天皇の血筋を引く貴族
親王(天皇の子弟)の生活は、朝廷の収入でまかなわれていました。
時には親王に氏姓(~氏)を与えて臣下とし、朝廷の負担を軽減してきました。
天皇や親王など皇族は氏姓なし
嵯峨・清和・醍醐天皇の子(2世)の氏
―源氏(嵯峨源氏・清和(せいわ)源氏・醍醐源氏)
桓武天皇の孫・ひ孫(3世・4世)の氏
―平氏(桓武平氏)
平
桓武の別称「平安宮に御坐し天皇」に由来
清和源氏系図(一部省略)
桓武平氏系図(一部省略)
嵯峨源氏の源信(応天門の変)や醍醐源氏の源高明(安和の変)は政界で活躍し、清和源氏・桓武平氏は軍事で活躍しました。
清和源氏は摂関家に仕えて勢力を伸ばし、特に源満仲は源高明を密告して失脚に関与
地方に土着する貴族
9世紀末~10世紀、軍事貴族は賊の鎮圧に国司として地方へ派遣されました。
国司は行政官のため、軍事的な統率・指揮権を帯びる押領使
や追捕使を別に兼任する形で賊の鎮圧にあたりました。
押領使が鎮圧できない場合、別に追捕使を派遣
任期後に土着し、在庁官人として働きながら田地経営する軍事貴族もいました。
彼らは受領と対立すると、田地を守るために武力を活かして抵抗しました。
受領に悩む有力農民は、軍事貴族の武力を頼って従者となりました。
地方に土着した軍事貴族として、次の2人が有名です。
- 上総国国司として盗賊鎮圧にあたった桓武平氏の祖高望王(平高望)
- 伊予国国司として海賊鎮圧にあたった藤原純友
高望王の子孫、そして藤原純友はやがて大きな反乱を起こしました。
桓武平氏系図(一部省略)
藤原氏北家系図(一部省略)
大乱と社会変化
東と西の大乱
935~940年、平将門の乱
一族内で争った平将門
(高望王の孫)は、やがて東国一帯を舞台に争乱を引き起こしました。
果てには将門は新皇と称するに至りました。
平貞盛と押領使の藤原秀郷が将門を討ち、争いは鎮圧されました。
平将門
939~941年、藤原純友の乱
伊予国で海賊鎮圧をした藤原純友は、やがて海賊の首領として略奪をおこないました。
939年、純友は大宰府を襲撃しました。
追捕使の小野好古・源経基が純友を討ち、争いは鎮圧されました。
日振島(純友の根拠地)
同時期に発生した乱
同時期に発生した2つの乱(平将門の乱、藤原純友の乱)は、併せて承平・天慶の乱と呼ばれます。
承平・天慶の乱
ピラミッド型の組織
承平・天慶の乱の平定に貢献した源経基・平貞盛などの有力な軍事貴族は、多くの開発領主(有力農民や軍事貴族)と主従関係を結んでいきました。
10世紀後半、彼らを頂点とするピラミッド型の組織武士団が形成されました。
やがて清和源氏・桓武平氏は、複数の武士団をまとめて武家を組織し、また、武家の統率者は棟梁と呼ばれました。
武士団に属す郎党以上の上位層が武士
武士団の階層
武士団の上下関係
初期の武士
所従(右の2人)
武士の活躍
宮中での活躍
滝口の武士(武者)
9世紀末以降、軍事貴族が主に担った宮中の警備員
本来の名称は「滝口の武者」で、10世紀後半の「武士」登場で滝口の武士と呼称
九州での活躍
刀伊の入寇
1019年、女真族(刀伊
)が九州北部を襲った事件
藤原隆家(藤原伊周の弟)が九州の武士団を指揮して撃退
女真族
沿海州地方に住んでいた民族で、朝鮮語で刀伊とも呼称