概要
地方に土着した軍事貴族は田地を守るために国司と対立したり、東西で大乱を起こしたりしました。では、大乱を平定した側の源経基(清和源氏)・平貞盛(桓武平氏)は、どのような軍事貴族であったのでしょうか。彼らは、地方の反乱を平定していくことで、徐々に勢力を伸ばしました。特に源氏は、鎮圧に失敗した平氏を引き離して台頭しました。
清和源氏の勢力
軍事貴族の2つのタイプ
軍事貴族は、次の①②のタイプに分けられます。
- 朝廷との接触を減らしながら、辺境の地方に土着する
―平忠常(桓武平氏)など
- 宮中警備・国司を務めて朝廷との関係を保つ
―源経基(清和源氏)・平貞盛(桓武平氏)など
清和源氏の東国進出
清和源氏源満仲(経基の子)は摂関家と縁を結び、969年の安和の変では、密告で源高明を失脚させました。
1028年、国司ともめた平忠常が房総半島で乱を起こすと、源頼信(満仲の子)がこれを鎮圧しました。
平貞盛の子孫が平忠常の乱の鎮圧に失敗し、この後桓武平氏は活躍の場を喪失
乱の2つの意義
A.清和源氏の東国での勢力拡大、桓武平氏の東国での勢力縮小
B.①の生き方は既に限界で、②を選んだ軍事貴族は後も活躍
清和源氏の東北進出と失敗
1051~1062年、前九年合戦
奥羽地方で安倍頼時が受領と対立したことを、源頼義
(頼信の子)は東北進出の好機として鎮圧に臨みました。
頼義は苦戦を強いられ、清原氏の助けで鎮圧しました。
源氏は武家の棟梁としての地位確立に成功しましたが、奥羽地方には助けを出した清原氏の勢力が拡大しました。
1083~1087年、後三年合戦
清原氏一族が跡継ぎ問題でもめると、源義家
(頼義の子)は、清原清衡
に荷担して清原氏一族の内紛を解決しました。
義家は東国の武士の功労に私財で報い、その信頼を集めましたが、奥羽地方には清衡の支配が確立しました。
清衡は奥州藤原氏の祖藤原清衡となり、陸奥国平泉を根拠地に、清衡・基衡・秀衡の3代100年にわたって繁栄しました。
清衡の父は藤原秀郷)の子孫、母は安倍頼時の娘で後に清原氏と再婚
藤原・安倍・清原氏の関係