概要
平氏の乱後、源氏は都における力を失いました。一方、都に残る平氏の勢力は増大し、武士団の統領である平清盛は政界に進出する機会を得ました。やがて清盛が武士として初めて太政大臣に就き、平氏は全盛期を迎えました。今回は、平氏の経済的基盤と全盛期の様子を主に学習します。清盛の有する貴族的(古代的)性格に着目してみましょう。
平氏の権力増大
公卿となった清盛
保元の乱・平治の乱後、都の勢力は平清盛の武士団のみとなりました。
後白河上皇は、平清盛を武士兼公卿として利用しようとしました。
1167年、平清盛は公卿の最上位太政大臣となりました。
武士で公卿となった前例なし
『平家物語』と異なる人物像―平清盛
ある僧が
祈祷で大雨を降らせて人々の賞賛を受けると、平清盛は「
五月雨
の頃には雨の降るのが当然だ」とあざけり笑い、また、
大輪田泊の修築の際には
人柱
を立てることを中止させました。清盛が同時代を超越した合理的・開明的精神の持ち主であったと分かります。しかし一方で、清盛は神仏を深く信じました。そこに清盛の可笑しさ・人間らしさを見いだせます。
平清盛(左:公卿の姿、右:出家後の姿)
平氏の経済的基盤
平氏の経済的基盤は次の3つでした。
- 知行国(全国の半分で30余国)
- 寄進地系荘園(500余カ所)
- 日宋貿易(平忠盛以来の貿易)
①知行国②寄進地系荘園について
平氏の田地把握の特徴は、公領・荘園の直接支配者に地頭を任命したことです。
地頭
役割は荘官と同じだが、背後に強力な武士の保護あり
通常の知行国
平氏の知行国
通常の寄進地系荘園
平氏の寄進地系荘園
③日宋貿易について
12世紀初め、宋は金に北部を占拠されて南宋となりました。
894年の遣唐使廃止以来、日本は海外と公的な国交はなかったが、
宋の私的な商船は度々来航しました。
平忠盛以来、平氏は南宋との貿易に力を入れていきました。
平清盛は摂津国の大輪田泊を修築し、貿易の拠点にしました。
大輪田泊
奈良時代に行基が開いた港で、12世紀まで修築されずに放置
厳島神社
平清盛が海上交通の守護を祈願して社殿を造営した神社
輸入された宋銭・香料・陶磁器などは唐物と総称
12~13世紀のアジア
厳島神社
宋銭
平氏の全盛
反平氏の意識
平氏一族が皆高位高官に上り詰めると、排除された他貴族は強い反感を覚えました。
平時忠「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」(『平家物語』)
1177年、
鹿ヶ谷の陰謀
後白河上皇の院近臣である藤原成親・僧俊寛らが、都の鹿ヶ谷の山荘で平氏打倒を話し合い、それが発覚した事件
平清盛は事件に関与した院近臣を根こそぎ排除
上皇の勢力が著しく低下し、平氏の権力は上皇を圧倒しました。
平氏の貴族的(古代的)性格
平清盛の娘徳子(建礼門院)が後白河上皇の子高倉天皇に入内しました。
1180年、高倉天皇・徳子の子安徳天皇が2歳で即位すると、清盛は天皇の母方の祖父「外祖父」となりました。
これにより、反平氏の気運はますます高まりました。
清盛と安徳天皇
安徳天皇
平氏の密偵―禿
『平家物語』によれば、清盛は「14~16歳の童を300人選び、髪を
禿(おかっぱ)に切り揃え、赤い
直垂
を着せて京の中をうろつかせた」とそうです。そして、平氏を悪く言う者を逮捕させ、また、その財産も没収させました。真実か創作かは意見が分かれますが、少なくとも平氏が京内の警察権までも掌握したことをよく伝える話と言えます。