クニと邪馬台国

表記について
概要
弥生時代は人と人の争いが本格化した時代でもあります。勝利した側は敗北した側を吸収していき、この過程で「クニ(小国)」が登場しました。中国の歴史書には、クニの長が支配力強化のために中国へ朝貢を試みたことが載っています。やがて「クニ」同士の政治的な連合が組まれ、邪馬台国のような連合の中心となる強い「クニ」が登場しました。

争いとクニ

農耕と争い

世界的に見て、農耕の開始と同時に、人・集落同士の争いは本格化しました。
弥生時代には、対人武器や防御目的の環濠集落・高地性集落が出現しました。
本格化の理由は、収穫という行為が天候に左右され、他の集落の余剰生産物が必要になるためです。
勝利した集落は、敗北した側を統合し、やがて大規模化していきました。
首長(王)の統治する政治的集団「クニ(小国)」が日本列島の各地に生まれていきました。

中国から見た日本列島の「クニ」

紀元前1世紀の様子

漢書地理志(著者:班固)
当時、中国では日本列島を「倭国(倭)」、住む人々を「倭人」と呼称
朝貢…中国の皇帝に貢物をして、中国との上下関係を築くこと
楽浪郡…中国「漢」の武帝が朝鮮半島に置いた郡(行政単位)

楽浪郡・帯方郡

冊封・朝貢

1世紀中頃〜2世紀の様子

後漢書東夷伝(著者:范曄)

金印とその印字

倭国の内乱

邪馬台国連合

邪馬台国連合の登場

魏志倭人伝(著者:陳寿)
2世紀後半の内乱の果てに、邪馬台国という「クニ」の女王卑弥呼を「クニ」同士が共立すると、争いが鎮まりました。
邪馬台国を中心とする29の「クニ」の大連合が登場しました。

邪馬台国連合

邪馬台国連合の社会と外交

社会

2つの身分があり、上位の大人と下位の下戸に分かれました。

外交

239年、卑弥呼は難升米なしめら使者を帯方郡を通じて魏の都洛陽に遣わしました。
卑弥呼は魏の皇帝から親魏倭王の称号と銅鏡100枚を賜りました。
卑弥呼は夫をもたず、弟の補佐をうけ、鬼道(呪術)で政治を執行
帯方郡…朝鮮半島の楽浪郡南部が分割され、新たに設置された郡(行政単位)
卑弥呼の賜った鏡を、古墳時代の遺物である三角縁神獣鏡と同一視する説あり

魏と洛陽

三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡(横)

歴史書からの消失

卑弥呼が亡くなり、次に男性の王が立っても連合はまとまりませんでした。
卑弥呼と同じ血筋の壱与いよ台与とよ)が女王になると、ようやく連合はまとまりを取り戻しました。
卑弥呼の晩年、邪馬台国は狗奴国くなこくと抗争
266年、邪馬台国の女王(壱与?)が晋の都洛陽に使者を遣わしました。
以降約150年間、中国の歴史書から倭国に関する記述が消えました。

卑弥呼を描く2つの絵画

大正~昭和期の日本画家である安田靫彦は、卑弥呼の絵を同時期に2種類描きました。

卑弥呼の絵

卑弥呼の絵
2種類の絵画が描かれた理由は、邪馬台国の所在地をめぐり、九州説と近畿説が大きく対立しているからです。

九州説

この説は次の根拠に支えられています。

卑弥呼の絵

近畿説

この説は次の根拠に支えられています。

卑弥呼の絵

邪馬台国とヤマト政権

3世紀後半から、大和(奈良)を中心に、ヤマト政権という政治連合が存在しました。
近畿説・九州説のどちらでも、邪馬台国はヤマト政権に結びつくとされます。

史料

紀元前1世紀の日本(『漢書』地理志)

原文

夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。

現代語訳

楽浪郡から海をへだてたところに倭人が居住しており、百余りの小国に分かれている。定期的におとずれ、貢物を献上するという。

1・2世紀の日本(『後漢書』東夷伝)

原文

建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。
安帝の永初元年、倭の国王帥升 等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。
桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。

現代語訳

建武中元二(57)年、倭の奴国が朝貢のためにおとずれた。使者は自分自身を大夫と名のった。奴国は倭の最も南にある国である。光武帝は、奴国の王に印綬を授与した。
安帝の永初元(107)年、倭の国王帥升等が、奴隷百六十人を献上し、お目にかかりたいと願った。
桓帝と霊帝の時代(147~189年)には倭の国内に大乱が起り、長い間戦いが続き、治める者がいなかった。

邪馬台国と卑弥呼(『魏志』倭人伝)

原文

習俗
男子は大小となく、皆黥面文身す。… …男子は皆露紒し、木緜を以て頭に招け、其の衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫ふことなし。婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。…

統治組織
…租賦を収むに邸閣あり。国々に市あり。有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。 女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如きあり。… 下戸、大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝へ事を説くには、或は蹲り或は跪き、両手は地に拠り、之が恭敬を為す。…

卑弥呼
其の国、本亦男子を以て王となす。住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。鬼道 を事とし、能く衆を惑はす。年已に長大なるも、夫壻なし。男弟あり、佐けて国を治む。…

外交
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣し郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣し、将て送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「…今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、…特に汝に…銅鏡百枚…を賜い、…」と。

卑弥呼の死後
卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与 年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。…

現代語訳

習俗
邪馬台国では、男は大人から子供まで顔や体に入れ墨をしている。男は髪をみずらに結い、植物繊維の布を頭にまき、着物は布を袈裟のように結んで縫ってはいない。婦人は髪を後ろに垂らして束ね、着物は布の中に穴をあけて着る貫頭衣を着ている。

統治組織
…租税を徴収し、それを納める倉庫がある。国々に市があってそこで交易を行い、大倭にこれを監督させている。 女王国から北には、特に一大率を置き、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れはばかっている。(一大率は)伊都国に常駐しており、国内では中国の刺史のような存在である。… 下戸が大人と道路であうと、しりごみしながら草むらへ入り、話をする場合は、うずくまったり跪いたりし、両手を地につけ、恭敬の態度を示す。…

卑弥呼
その国(倭のこと)では、以前は男王をたてて7、80年を経過したが、国内が乱れ何年間も戦争が続いたので、諸国が共同で一人の女子を王として推戴した。この女王の名を卑弥呼といい、呪術を行い、多くの人に自分の占いを信じさせている。すでに成人しているが、夫はなく、弟が政治を補佐している。…

外交
景初三(239)年六月、倭の女王が大夫の難升米らを帯方郡に遣わし、(魏の)天子に謁見して朝貢することを求めた。帯方郡長官の劉夏は、郡の官吏を遣わして案内させて京都(洛陽)まで送らせた。 その年の十二月、詔書を下して倭の女王に報じていうには、「…今汝を親魏倭王となし、金印紫綬を授け、…銅鏡百枚もつかわす…」。

卑弥呼の死後
卑弥呼が死ぬと大きい墓をつくった。その直径は百余歩で、卑弥呼に殉死した奴隷百余人が一緒に葬られた。その後、男子の王が即位したが国を支配できず、たがいに殺し合う内乱で千余人が殺された。卑弥呼の一族の女で十三歳の壱与が女王になると国中が治まった。