概要
古墳の特徴は、5世紀(古墳時代中期)から大きく変化し、その端々に大陸(主に朝鮮半島)の影響が見られるようになりました。ヤマト政権は、朝鮮半島南部の国と関係をもち、半島の情勢が変化すると巻き込まれました。その過程で大陸の文化を受容し、古墳をはじめとする日本列島の文化(文字・思想など)を変質させていきました。
ヤマト政権と大陸の関わり
朝鮮半島の諸国
中国が3世紀の三国時代(魏・呉・蜀)から5世紀の南北時代(北魏・宋)に移行しました。
この過程で、朝鮮半島の諸国にも変動が生じました。
3世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ馬韓
Ⓒ弁韓
Ⓓ辰韓
4~5世紀
北部
Ⓐ高句麗
南部
Ⓑ百済
Ⓒ加耶(加羅)諸国
Ⓓ新羅
ヤマト政権と朝鮮半島の諸国
加耶諸国
ヤマト政権は加耶諸国に鉄素材を求め、両者は早くから密接な関係にありました。
百済
地理上、百済は高句麗に対して背後を固める必要がありました。
372年、百済王は倭王に七支刀
を贈り、国交を結ぼうとしました。
4世紀、高句麗との争い
4世紀後半、高句麗が南下策を進めました。
上述のように、百済・加耶諸国と関係をもったヤマト政権は、これらとともに高句麗と争うことになりました。
391年のヤマト政権と高句麗の交戦の様子が、好太王碑の碑文に記されています。
好太王碑
「高句麗の立場(百済・新羅は高句麗の従属国)」で書かれた史料ということに留意
好太王(広開土王)碑
「倭は391年よりこのかた、海を渡り、百済を破り、新羅を□□して臣民とした」とある。読解では、碑文内容と当時の情勢の食い違いに留意したい。
結局軍事力で高句麗に抵抗できず、ヤマト政権は撤退しました。
5世紀、倭の五王と中国南朝
ヤマト政権は、朝鮮半島での外交・軍事の有利な立場を確保したいと考えました。
中国南朝(宋)に対して、朝鮮半島の支配者を示す称号を求めました。
『宋書』倭国伝
- ヤマト政権の5人の王讃・珍・済・興・武(倭の五王)が、5世紀初めから約1世紀間、相次いで中国南朝に朝貢
- 倭の五王の武が過去の征服事実(日本列島東の毛人・西の衆夷
の平定、朝鮮半島南部の諸国の平定)を中国南朝に報告
- 478年、武が安東大将軍の称号を中国南朝から獲得
済・興・武
『日本書紀』の允恭・安康・雄略天皇に該当
宋書で大王の系図
日本書紀で天皇の系図
大陸文化の受容
技術を運ぶ渡来人
4~5世紀、ヤマト政権は朝鮮半島から技術を学びました。
渡来人と呼ばれる、大陸から日本列島に渡った人々もいて、彼らによっても様々な技術が伝えられました。
技術を運ぶ渡来人
ヤマト政権は、渡来人を技術ごとの集団に編入しました。
韓鍛冶部
鍛冶・銅工などをおこなう集団
陶作部
陶器(須恵器)を製作する集団
上記の集団は品部と総称、伴造に統率されました。
代表的な渡来人
王仁
|
西文氏の祖、『論語』を伝える |
阿知使主 |
東漢氏の祖、財務に携わる |
弓月君
|
秦氏の祖、養蚕・機織を伝える |
漢字文化
日本列島で製作された江田船山古墳(熊本)の鉄刀、稲荷山古墳(埼玉)の鉄剣の銘文に漢字が見られます。
日本列島で漢字の使用が始まったと分かります。
江田船山古墳
鉄刀・鉄剣の銘文には、武(雄略天皇)と思われる「ワカタケルオオキミ」の名があります。
東西に及ぶ武の支配、漢字の音を借りた表記(万葉仮名)が分かります。
ヤマト政権の勢力範囲(色塗り部分)
思想
儒教
6世紀初め、百済から渡来した五経博士によって伝来
仏教公伝は、538年(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)と552年(『日本書紀』)の2説あり
公伝の前から、522年に百済から渡来した司馬達等の仏像崇拝あり
歴史書
6世紀、大王の系譜「帝紀」と朝廷の伝承「旧辞」を編纂!?