鎖国にいたる道

表記について
概要
日本とヨーロッパの貿易には、まずポルトガル・スペインが、遅れてイギリス・オランダが参加しました。江戸幕府は、当初積極的にそれらの国々と外交しましたが、キリスト教への警戒から次第に貿易を制限していきました。結果、キリスト教の布教を避けたオランダが、鎖国中の日本とも貿易を続けていくことができました。

積極的な初期外交

イギリスとオランダとの外交

16世紀末、イギリスとオランダが台頭してアジアへの進出を図っていました。
1600年、オランダ船リーフデ号豊後ぶんご 国に漂着しました。
徳川家康は船員のオランダ人航海士ヤン=ヨーステン(和名:耶揚子やようす)と、イギリス人水先案内ウィリアム=アダムス(和名:三浦按針あんじん )を厚遇しました。
1609年にオランダが、1613年にイギリスが幕府から貿易の許可を得て、肥前ひぜん平戸に商館を開きました。
スペイン人・ポルトガル人を南蛮人と呼称したのに対して、オランダ人・イギリス人を紅毛人と呼称
また、オランダ人・イギリス人はプロテスタント(新教)で、布教には不熱心

リーフデ号

平戸

平戸のオランダ商館

スペインとの外交

1596年、サン=フェリペ号事件でスペインとの通交は一度途絶しました。
1609年、フィリピンのルソン前総督ドン=ロドリゴが 上総かずさ国に漂着しました。
1610年、徳川家康は京都の商人田中勝介を派遣し、ロドリゴをスペイン領メキシコへ送りました。
この派遣を機に、スペインとの通交が再開されました。
1613年、仙台藩主伊達政宗だてまさむねは家臣支倉常長はせくらつねながが率いる慶長遣欧使節をスペインへ送り、直接貿易を結ぼうとしました。
この使節は目的を果たせませんでした。

伊達政宗

支倉常長

ポルトガルとの外交

ポルトガル商人は、中国産の生糸を長崎に運んで販売しました。
日本の商人の自由競争による購入で、生糸の値段は釣り上がり、ポルトガル商人は巨額の利益を得ました。

生糸

自由競争で巨利を得るポルトガル人
1604年、糸割符いとわっぷ制度
京都・堺・長崎」の豪商に糸割符仲間をつくらせ、糸割符仲間に一定価格で生糸を一括購入させた制度
結果としてポルトガル商人の暴利を抑制成功
糸割符仲間
後に「江戸・大坂」の豪商が加わり、五ヵ所商人とも呼称

糸割符仲間

明との外交

当時、は海禁政策をとっていました。
徳川家康は、朝鮮・琉球王国を通じて明との国交回復を交渉したが拒否されました。
正式な国交回復を諦め、江戸幕府は中国船との私貿易を開始

日本人の海外進出

江戸幕府は、海外進出に挑む商人に朱印状を与え、渡航を許可しました。
長崎の末次平蔵すえつぐへいぞう、摂津の 末吉孫左衛門すえよしまござえもん 、京都の角倉了以すみのくらりょうい茶屋四郎次郎が、朱印状を得たことから朱印船と呼ばれる貿易船を使い、貿易を活発におこないました。
海外移住する日本人も増え、東南アジア各地に日本町がつくられました。
山田長政は、タイ(シャム)のアユタヤ朝に重用され、日本町の長になりました。

角倉了以

山田長政

鎖国という状態

鎖国へ

次の2つの理由から、江戸幕府は次第に渡航や貿易に制限を加えました。
1616年、中国船を除く外国船の寄港を平戸長崎に制限
1622年、長崎の元和の大殉教で55人の信者・宣教師を処刑
1623年、イギリスがオランダに敗れ、日本との貿易から撤退
1624年、スペインの来航を禁止
1633(寛永12)年、老中の許可状を得た奉書船以外の渡航を禁止
1635年、日本人の渡航・帰国を禁止し、中国船の寄港を長崎に制限
1637年、島原の乱発生(翌年鎮圧)
1639(寛永16)年、ポルトガルの来航を禁止
1641年、平戸のオランダの商館を長崎の出島に移動
以後200年間、日本はオランダ・中国・朝鮮・琉球王国・アイヌ以外と交渉せず、いわゆる鎖国の状態となりました。
来航する貿易船はオランダ船・中国船のみで、貿易港は長崎に限定されました。
鎖国
ドイツ人ケンペルが著書『日本誌』で日本の状態を指摘し、これを志筑忠雄が「鎖国論」と和訳したことに由来

ケンペル

鎖国への道
「鎖国」状態を「祖法」にした者―松平定信
「鎖国」という言葉は海外からのレッテルと言え、江戸時代の日本は「四つの窓口」で異国と盛んに交流し、また、新規外交を拒絶する方針も当初定めていませんでした。それが定まるのは、18世紀末のロシアの通商要請を断るため、松平定信が今の外交関係維持が幕府創立以来の「祖法」だと宣言した時でした。「鎖国」という言葉の印象で江戸時代を捉えることは、時代像を大きくねじ曲げて理解することになります。

史料

糸割符制度

原文

黒船着岸の時、定め置く年寄共、糸ノ直イタサザル以前ニ、諸国商人長崎ヘ入ルベカラズ候、糸ノ直相定候上ハ、万望次第商売致スベキ者なり

現代語訳

欧米船が着岸した際には、定めておいた年寄たちが、糸の価格を決定する前に、諸国の商人は長崎へ入ってはいけない。糸の価格が決定したら、すべて望むように商売をしなさい。