四つの窓口

表記について
概要
いわゆる「鎖国」という状態においても、日本は「長崎・対馬・薩摩・松前」で異国に開けていました。今回は、江戸時代の日本がこれら「四つの窓口」で外交した5カ国について確認しましょう。なお、5カ国のうち中国・オランダについては、貿易港が長崎に限定された頃(中国:1616年/オランダ:1641年)から話を始ます。

西洋とのパイプ役

オランダとの新たな外交

1641年以降、オランダ人の日本滞在の場所は長崎の出島に限られ、長崎奉行の監視の下、日本人との自由な交流は禁止されました。
江戸幕府はオランダ商館長にオランダ風説書を提出させることで、海外の事情を知り得ました。
毎年1回、オランダ人の江戸参府さんぷあり
オランダの輸出品
中国産生糸きいとや織物類
オランダの輸入品

出島

近隣諸国との外交

琉球王国の二重外交

1609年、薩摩さつま藩主島津家久は琉球王国(1423年~)を征服しました。
薩摩藩は、琉球王国を支配下に置きながらも、氏をその王位につかせて、名目上は独立王国として存続させました。
そして薩摩藩は、琉球王国に明(後にしん)との朝貢貿易をさせ、その貿易で得た中国の産物を送らせるなど利益を吸い上げました(密貿易)。
また薩摩藩は、琉球王国に琉球産黒砂糖の上納を要求しました。
琉球王国は、国王の代替わりにその就任を感謝する謝恩使を、将軍の代替わりにそれを奉祝する慶賀使を幕府に派遣しました。

黒砂糖

謝恩使

蝦夷ヶ島の支配

蝦夷えぞヶ島の和人地(道南部)には、15世紀から蠣崎 かきざき氏が勢力をもちました。
近世になると蠣崎氏は松前氏と改称しました。

道南
1604年、松前氏は徳川家康にアイヌとの交易独占を許され、松前藩をたてました。
松前氏と家臣の主従関係は商場知行制を基本とし、アイヌとの交易地域商場あきないば (場所)での交易権を家臣に分配していました。

商場知行制
1669年、シャクシャインの戦い
アイヌ総首長シャクシャインが松前藩に対して起こした反乱
鎮圧後、アイヌは和人の交易相手ではなく、使役される立場に転落しました。

シャクシャイン

アイヌの参賀の礼
*アイヌの姿を誇張して描画
18世紀前半には、松前藩の家臣は商場での交易権を和人商人に委託し、利益の一部を上納させる場所請負制を開始しました。

場所請負制

朝鮮との外交

徳川家康は朝鮮(1392年~)との講和に意欲を示しました。
1609年、対馬 つしま 氏と朝鮮との間に、己酉きゆう約条が結ばれました。
この条約を両国の関係の基本とし、釜山プサン倭館が設置されました。
15世紀以降、宗氏は朝鮮に対する窓口として、特権的地位を確立
朝鮮からは、計12回の使節が江戸時代を通じて来日しました。
初期3回は文禄・慶長の役の朝鮮人捕虜返還目的の使節でした。
4回以降はよしみを通じる修好目的の使節で、通信使と呼ばれました。

通信使

中国との外交の変化

中国では17世紀前半に満州民族のが成立し、漢民族の明が衰退しました。
日本と清は私貿易をおこない、長崎での貿易額は年々増加しました。
輸入の増加によって、日本のが大量に流出しました。
中国の輸出品
中国産生糸や織物類
中国の輸入品
銀や銅・海産物

銀の流出
1685年、江戸幕府は銀の流出を低減するため、清とオランダからの貿易額を制限しました。
清:銀換算した年間貿易額で銀6000かん
オランダ:銀換算した年間貿易額で銀3000貫
1688年、清の船の来航を年間70せきに限りました。
1689年、長崎に雑居ざっきょしていた清国人の居住を唐人屋敷に限定しました。

唐人屋敷

鎖国と「四つの窓口」

四つの窓口

いわゆる鎖国の状態下でも、日本は次の「四つの窓口」で異国と交流しました。

四つの窓口