室町時代の貿易(2)

表記について
概要
日本という国、そして日本人という人々は、どこまでの範囲を指すのでしょうか。それらは歴史の中で常に変動してきました。事実、今日の日本の一部には、古代の行政区分をもたないところがあります。沖縄県・北海道のことです。当時、それぞれは琉球・蝦夷ヶ島と呼ばれ、日本と異なる歴史や独自の貿易を展開していました。

琉球

12~14世紀の琉球

縄文文化以降も、琉球では食料採取に頼る生活が12世紀頃まで続いていました。
このような琉球の文化を貝塚文化と呼びます。
12世紀頃から、琉球でも農耕生活が始まり、身分の格差が生じました。
各地に現れた首長按司あじが、グスクを拠点に勢力を争いました。
やがて北山ほくざん中山ちゅうざん南山なんざん の3つの勢力(三山さんざん)に統合されました。
グスク
もとは集落の拠点施設で「城」とも表記

グスク(勝連グスク)

15世紀の琉球

三山(北山・中山・南山)が争いました。
1429年、中山の王尚巴志しょうはしが三山を統一し、琉球王国を建国しました。
琉球王国は明・日本・東南アジアの諸国と貿易しました。
尚巴志(王国の樹立者)
明の都を手本に、首里の整備を図りました。また、東南アジアの商人と緊密な関係を保ち、貿易を活発化させました。体が小さく、小按司と呼ばれましたが、志は大きかったのでした。

首里城(正殿)

琉球の貿易の特徴

中継貿易
自国の商品よりも、主に他国Aからの輸入品を他国Bへの輸出品にする貿易
蘇木(左)・香木(右)
東南アジア産の植物で、蘇木は 染料に香木は香料に用いられました。琉球の中継で日本に輸入されました。
琉球王国の歴史の証―琉球の酒「泡盛」
日本の焼酎の起源は、泡盛だと言われます。泡盛の製造は、14世紀、琉球王国と交流のあったシャム王国(現在のタイ)が、酒の蒸留技術を伝えて始まりました(諸説あり)。江戸時代には、琉球王国から将軍への献上品として使われ、名酒と評されました。なお、技術を伝えたシャムでは製造に黒麹 くろこうじ を利用しており、泡盛の定義はこの麹を利用していることです。そのため、泡盛の原料には安価で黒麹を作りやすいタイ米がよく選ばれます。


蝦夷ヶ島

13世紀の蝦夷ヶ島

縄文文化以降も、蝦夷ヶ島では食料採取に頼る生活が続きました。
このような蝦夷ヶ島の文化を続縄文文化と呼びます。
7世紀以降も食料採取中心でしたが、次の文化に発展しました。

擦文文化

オホーツク文化
*クマ彫刻
13世紀頃、現在まで続くアイヌの文化が形成されました。
津軽に勢力をもつ安東あんどう氏は、拠点十三湊とさみなとでアイヌと貿易しました。
アイヌ
古くからの蝦夷ヶ島の先住民で、文化自体は13世紀頃に形成

13~15世紀の蝦夷ヶ島

13~14世紀、安東氏は、十三湊を拠点にアイヌと貿易をしました。
この貿易でもたらされた鮭・昆布は、京都にも運ばれました。
15世紀、安東氏や和人わじんが、蝦夷ヶ島の南部(道南どうなん)に進出しました。
道南の沿岸に和人のたてが築造され、道南十二館どうなんじゅうにたてと総称されました。
和人
アイヌの立場からの日本人の呼称
倭人
中国からの日本人の呼称
和人の進出は次第にアイヌを圧迫し始めました。
1457年、アイヌの首長コシャマインが蜂起しました。
道南の有力者の1人蠣崎かきざき 氏がコシャマインの蜂起を鎮め、後に道南一帯の支配者へと成長しました。
蠣崎氏
江戸時代、松前氏と改称し、大名として道南を支配

補説―蝦夷とアイヌ

古代、日本の支配拡大に抵抗した東の人々を蝦夷えみしと呼びました。
蝦夷には、蝦夷ヶ島のアイヌも含まれました(蝦夷⊃アイヌ)。
日本の支配拡大で、蝦夷と呼ばれる範囲が狭まっていきました。
中世、蝦夷はアイヌをほぼ指しました(蝦夷≒アイヌ)。

日本の範囲(左:5世紀/右:13~14世紀)
アイヌの世界観―カムイとヒグマ
アイヌは、自然界の様々なものに神(カムイ)を見出し、敬虔な心で接してきました。その世界観によれば、狩猟対象の動物は、神が人間の世界を訪れた時の仮の姿であり、神は捕えられ、祀ってもらうこと(イオマンテ)で神の国へ帰れるのだといいます。その際に生じた肉や皮は、人間界を訪れた神からの贈り物とされました。なお、ヒグマは最高位の神キムンカムイの仮の姿と考えられ、特別な存在でした。