概要
1467年に始まる応仁の乱は、大きな転換の様相を帯びています。6代将軍の死を契機に将軍権威は失墜し、8代将軍の時代には将軍さえも有力守護の発言に左右されました。守護の内紛から始まった応仁の乱は、将軍家の継嗣問題を巻き込み、京に留まらず各地にも火種をまいていきました。遂に戦国時代の幕開けです。
将軍権威の失墜
くじ引き将軍
4代将軍足利義持の時代である1416年、前関東管領
上杉禅秀が反乱を起こし鎮圧されました。
乱後、義持は有力守護の不満防止に話し合いを重視し、次期将軍の決定はくじ引きでおこなわれました。
結果、足利義教が6代将軍に就任しました。
5代将軍は夭折
1428年、将軍の代替わりを機に正長の徳政一揆が発生
足利義教(6代将軍)
くじ引きで将軍に選ばれました。それゆえに、義教は将軍権力の確立を急ぎ、時に神意で選ばれたことを盾に恐怖政治をおこないました。結果、赤松満祐に謀殺されてしまいました。
容赦ない弾圧に民衆から「悪将軍」とも呼ばれました。
荒れる鎌倉府と将軍犬死
足利持氏が足利義教を軽んじたため、両者は対立しました。
1438年、
永享の乱
足利持氏と関東管領上杉憲実の衝突を機に、義教が持氏を討った事件
1440年、
結城合戦
持氏の遺児を擁した結城氏の挙兵事件
これらの他、義教は各勢力に強圧策で臨みました。
1454年、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉氏を暗殺したことで、享徳の乱が起こり、関東は一足先に戦国時代へ突入
京で「次は赤松討たるべし」と噂されました。
1441年、
嘉吉の変
危機感を抱いた守護赤松満祐
が義教を謀殺した事件
満祐は討伐されましたが、将軍の権威は大きく動揺しました。
池を泳ぐカルガモの親子
赤松氏は「庭の池にカモの子が誕生し、親子で泳ぐさまが可愛いのでぜひお越しを」と義教を邸宅に招きました。この巧みな罠に、義教は騙されました。
応仁の乱以前は外国の歴史―内藤湖南の主張
1921年、内藤湖南は「応仁の乱以前は外国の歴史であり、今日の日本を知るためには、乱後の歴史を知っていれば十分だ」と述べ、聴衆を驚かせました。これは単なる思いつきではありません。多少のずれはありますが、乱の前後で①1日3食②木綿の服③味噌・醤油④肉食⑤座敷など、高度経済成長まで続いた和風生活様式の基本ができました(①②の一般化は戦国時代)。これらの点で、湖南は応仁の乱以前の日本を「外国」と表現しました。
大乱勃発
将軍家の継嗣問題
8代将軍足利義政と妻日野富子には子がいませんでした。
次期将軍は、義政の弟足利義視と約束されました。
足利義政(8代将軍)
日野富子
義政・日野富子の間に足利義尚(後の9代将軍)が誕生しました。
約束は破棄され、次期将軍は義視から義尚に変更されました。
この変更で、将軍家の継嗣問題がくすぶり始めました。
京を荒廃させた大乱
守護が内紛・家督争いで2勢力に分かれ対立しました。
1467年、
応仁の乱
京を戦場とした西軍・東軍の2勢力の争い
将軍家の継嗣問題も交えて激化、1477年に収束
西陣
西軍の山名持豊の陣地に由来する地名で、西陣織が有名
足軽
応仁の乱の頃盛んに活動した惣村の地侍層。軽装で集団戦法に向き、後に兵として用いられました。公家の日記には、足軽に対する非難罵倒が見られます。
乱後の社会変動
応仁の乱で、全国に次の①~④の変化が生じました。
- 下剋上の風潮による全国的な争い(戦国時代へ突入)
- 在京義務の守護が自分の国を心配して地方へ下向
- 貴族が守護を頼って地方へ下向(京の文化の伝播)
- 守護の下向に伴い、幕府の体制崩壊、荘園公領制の解体進行
下剋上
伝統的権威に頼らず、実力で上位の者を打倒すること
下剋上の風潮
下剋上の例として、次の①②の出来事が有名です。
- 1485年、山城の国一揆
国人が一揆を結び、応仁の乱後も国内で戦いを続ける畠山氏両軍を、国外へ撤退させ、8年間実行支配
- 1488年、加賀の一向一揆
加賀国の一向宗(浄土真宗の一派)が、守護富樫政親を倒した一揆
この後から織田信長の制圧まで、約100年間一向宗が加賀国を支配し、その支配を「百姓ノ持タル国」と呼称
本願寺の蓮如による布教が、一向宗の増長の背景