概要
14~15世紀にかけての時期は、アジアで新旧の勢力が激しい勢いで交替して、新しい国際秩序が生み出された時代でした。倭寇と呼ばれる海賊集団が南北朝の動乱期に現れ、日本の東アジアでの孤立を許さない環境をつくりました。明・朝鮮が日本に倭寇の禁止・通交を求め、足利義満がこれに応じて貿易は始まりました。
中国・朝鮮との貿易|14~16世紀
倭寇の活動
14世紀中頃、日本人の海賊集団倭寇が現れ、中国大陸・朝鮮半島の沿岸で略奪行為を開始しました。
倭寇
倭寇の被害
中国や朝鮮半島の高麗は倭寇に悩み、日本に取締りを求めました。
要求は南北朝の動乱で成功しませんでした。
後期倭寇
16世紀の倭寇で、大部分は中国人(一部日本人)
1588年、豊臣秀吉の取締りで以降消滅
中国との貿易
日本と元の間に正式な国交はなく、私的な商船の往来のみありました。
蒙古襲来後も、次の2例のような貿易船が元へ派遣されました。
- 1325年、鎌倉幕府が建長寺の修造費調達のために派遣
- 1342年、足利尊氏が天龍寺の造営費調達のために派遣
天龍寺
後醍醐天皇の冥福
に、夢窓疎石が足利尊氏に造営を勧めた寺院
1368年、朱元璋が元を退けて明を建国しました。
明は近隣諸国に朝貢を要求しました。
朱元璋(明の初代皇帝)
元打倒を目指す反乱軍に加わり、一兵士から統率者となりました。洪武帝の名で親しまれます。
冊封と朝貢
3代将軍足利義満は、朝貢によって許される貿易の利益を優先し、1401年、同朋衆祖阿を正使、博多商人肥富
を副使として明に派遣しました。
明の皇帝は義満に「日本国王」の称号を与え(冊封)、ここに日明貿易が開始しました。
日明貿易の別称と特徴
別称①:
朝貢貿易
国王が皇帝に貢物を献じて、皇帝から返礼の品を賜るという形で行われる貿易
滞在費と運搬費は皇帝側の負担で、日本の利益莫大
別称②:
勘合貿易
勘合という証票を使用する貿易
この証票で倭寇か否かを判断
朝貢貿易
勘合(日本→明の勘合)
義満が使節を送り、朝貢が開始されると、明から交付されました。
日明貿易の輸出品
硫黄
黒色火薬の主要原料であり、自然硫黄は火山国でないと自給不可能
明銭(永楽通宝)
生糸
日明貿易の展開と断絶
4代将軍足利義持
は朝貢形式を嫌い、貿易を中止しました。
足利義持(4代将軍)
父義満とは不和であり、義満の急死によりようやく実権を握れました。
その反動か義持の政策には、義満の政治姿勢と乖離する点が多く見られます。
6代将軍足利義教は貿易を再開しました。
足利義教(6代将軍)
くじ引きで将軍に選ばれました。それゆえに、義教は将軍権力の確立を急ぎ、時に神意で選ばれたことを盾に恐怖政治をおこないました。結果、赤松満祐に謀殺されてしまいました。
容赦ない弾圧に民衆から「悪将軍」とも呼ばれました。
応仁の乱以降は、堺の商人と結ぶ細川氏と、博多の商人を結ぶ大内氏が貿易の実権を握りました。
1523年、
寧波の乱
両氏が主導権をめぐって中国の寧波で衝突した事件
大内氏が勝利して、以後貿易を独占しました。
14~16世紀の東アジア
16世紀半ば、大内氏の滅亡で貿易が断絶し、後期倭寇が活発化しました。
1588年、豊臣秀吉が海賊取締令を出し、倭寇は沈静化しました。
朝鮮との貿易
1392年、李成桂が高麗を倒して、朝鮮を建国しました。
朝鮮は日本に通交と倭寇の禁止を求めました。
李成桂(朝鮮の初代国王)
北方で他民族を平定し、倭寇討伐にも勲功がありました。後に政権を握り、朝鮮(李氏朝鮮)を建国しました。
3代将軍足利義満は求めに応じて、日朝貿易を開始しました。
日朝貿易の特徴
- 対馬の宗氏
が朝鮮との窓口役
- 朝鮮の3つの貿易港は三浦(塩浦・富山浦
・乃而浦と総称
- 三浦に倭館(日本人使節接待の客館、日本人の居留地)を設置
14~16世紀の東アジア
日朝貿易の輸出品
朝鮮から日本…木綿・大蔵経
日本から朝鮮
硫黄・銅
、琉球貿易で入手した蘇木(染料)・香木(香料)
木綿
朝鮮の展開と衰退
1419年、
応永の外寇
朝鮮が対馬を倭寇の本拠地と考えて襲撃した事件
貿易は一時中断されたが、後に再開されました。
1510年、
三浦の乱
朝鮮の特権制限を不満とした日本人による暴動事件
鎮圧されたが、以後日朝貿易は衰えました。