鎌倉文化―鎌倉仏教の展開(1)

表記について
概要
鎌倉文化は、新政権の成立に対する公家の深刻な危機意識の中で生み出されました。その複雑な動向を思想の面で集約するのが、鎌倉時代の仏教でしょう。武士の台頭・相次ぐ乱は、末法思想を裏付けるのに充分でした。末法思想の確信で一層流行した浄土教と、文学を通じて深められた人間観が結びつき、両者は法然によって深化されていきました。そして鎌倉時代も半ばを過ぎると、法然に始まる新しい浄土教が庶民の間に浸透し、また禅の受容が進むにつれて仏教のあり方も徐々に変化を見せるようになっていきました。

人間観の深化

浄土教を信じるとして、どうしたら往生おうじょうし、そして仏になれるのでしょうか。この問いに対して、2人の人物が新たな鎌倉仏教を開きました。

法然(1133~1212年)


法然

教え

阿弥陀仏の意に適い、往生する方法は何でしょうか。
法然源空 )は、「阿弥陀仏」の名を唱える念仏を、全ての人ができ、阿弥陀仏の意に適う行為だと考えました(下の①~③)。
法然は当初弾圧を受けたが、次第に信者が参集

浄土宗の考え

関連事項

宗派
浄土宗
著書
選択本願念仏集せんちゃくほんがんねんぶつしゅう
中心寺院
知恩院(京都)

親鸞(1173~1262年)


親鸞

教え

法然の弟子の親鸞しんらんは、やがて別の考え方をもちました。
親鸞は人間の内実の徹底的な凝視(人間観の深化)を求めました。
親鸞は悪人こそが救済の対象であるとする、悪人正機しょうき を説くに至りました(下の①~③)。
悪人正機
親鸞の弟子唯円ゆいえんが著書『歎異抄たんにしょう』で紹介

浄土真宗の考え

関連事項

宗派
浄土真宗一向宗
著書
教行信証きょうぎょうしんしょう
中心寺院
本願寺(京都)


禅の受容

当時、全ての者が「末法思想」と、それによる「浄土教」を信じたわけではありません。解脱して成仏するための釈迦の教えは、今なお有効であるという主張もありました。それではどのような修行方法が釈迦の教えに適しているのでしょうか。この問いに対して、2人の人物が新たな鎌倉仏教を開きました。

栄西(1141~1215年)


栄西

教え

栄西は、末法で動揺した日本仏教を立直すために、大陸の禅宗を学び、修行の中心に座禅を据えた教えを説いた。
修行の中心に座禅を据えた教えを説きました(下の①~③)。

公案「片手で鳴る音は?」

臨済宗と幕府

栄西は、布教のために幕府を頼りました。
幕府は大陸で主流の禅宗に関心をもち、庇護ひごの対象としました。
栄西は著書『喫茶養生記きっさようじょうき』を3代将軍源実朝に献呈し、日本の飲茶の習慣普及に貢献

栄西の死後も、臨済宗は幕府の保護を受けて栄えました。
南宋からの禅僧蘭溪道隆らんけいどうりゅう 無学祖元来日し、蘭溪道隆は建長寺を、無学祖元は円覚えんがく を建立した。
蘭溪道隆
北条時頼が帰依
無学祖元
北条時宗の招きで来日

蘭溪道隆の頂相

関連事項

宗派
臨済宗
著書
興禅護国論
喫茶養生記きっさようじょうき
中心寺院
建仁寺(京都)

道元(1200~1253年)


道元

教え

道元は、栄西の弟子に学びましたが、純粋に坐禅のみを重視しました(下の①②)。

関連事項

宗派
曹洞宗そうとうしゅう
著書
正法眼蔵しょうぼうげんぞう
中心寺院
永平寺(福井)
曹洞宗
幕府・朝廷などの権勢に近づかないように警告

只管打坐