概要
法然は浄土教を深化させました。また、栄西は末法思想を否定、禅の受容によって日本仏教を革新しようと試みました。鎌倉時代中期、これらの教えが武士・庶民に浸透して、宗派ごとに教団が形成されました。
仏教が武士・庶民に浸透すると、まだ見ぬ極楽浄土よりも、先だって現世でいかに救われるかが目下の関心事となりました。一遍は現世での弱者の救済を説き踊念仏を広め、また、日蓮は社会の安定を法華経の教えに求めました。南都の仏教もこれらと争うように、教義の革新、庶民への接近(慈善事業)などに努めました。
現世への対応
人々は今を生きます。この現世でいかに仏の救いを得るかが最大の関心となりました。仏教は現世の問題にどのように対応できるのか。この問いに対して、2人の人物が新たな鎌倉仏教を開きました。
日蓮(1222~1282年)
日蓮
教え
日蓮は、『法華経』のみが釈迦の教えを正しく伝え、末法の世でも効力をもつと考えました(下の①②)。
- 題目と呼ぶ「南無妙法蓮華経」の7字を唱える。
- 人々は生きながら(現世で)成仏できる。
日蓮は、『法華経』を蔑ろにする禅・念仏など他宗攻撃を激しくおこないました。
邪法である禅・念仏を止めなければ、いつか外敵侵入と内乱に遭うと予言し、『立正安国論』を5代執権北条時頼に提出しました。
時頼は日蓮を流罪とし、その後蒙古襲来には遭いましたが侵入されませんでした。
日蓮は幕府の激しい弾圧を何度もうけたが、教えは関東の武士や商人に浸透
日蓮宗の教え
関連事項
一遍(1239~1289年)
一遍
教え
- 信不信・浄不浄の差別なく、念仏を唱えれば往生できる。
- 往生できる喜びが、踊りとして自然に現れる(踊念仏)。
踊念仏
踊りは農耕儀礼・庶民の娯楽と共通点が多く、親しみやすい側面あり
踊念仏
一遍は、民衆に踊念仏で布教しながら諸国を遍歴しました。
遍歴の様子は、『一遍上人絵伝』に描かれました。
一遍上人絵伝
関連事項
語録
『一遍上人語録』(一遍は死の直前に著書を焼却)
鎌倉仏教の諸寺院まとめ
既成教団の動向
南都の仏教
南都六宗は仏教の革新と、民衆への接近を目指しました。
法相宗:
貞慶
(解脱)
華厳宗:明恵(高弁)
律宗:叡尊
(思円)
律宗:忍性(良観)
明恵
法然を批判し、『摧邪輪』で彼の説に反論
忍性
ハンセン病者の救済施設北山十八間戸
を設置
明恵
北山十八間戸
神の信仰とその他
神の信仰―教義の必要性
仏教受容の一方、神の信仰(神祇信仰)が受け継がれていました。
当初、理論・体系などの教義は必要なく、布教も必要ありませんでした。
そして、重要な神社は朝廷の経済的な保護をうけました。
律令制が崩壊して朝廷の権威が失墜すると、神社は神々の威光・由来を宣伝し、寄進や参詣人を集めなければならなくなりました。
その過程で「神道(神祇信仰+教義)」が生み出されました。
動きはやや遅れて伊勢神宮にも起こり、伊勢外宮の神官度会家行は、伊勢神道を生み出しました。
度会家行
『
類聚神祇本源
』を著し、
本地垂迹説を否定
神本仏迹説(反本地垂迹説)を唱えて、神(本地
)が仏という仮の姿(垂迹)でも現れたのだと説明・納得
その他
- 修験道(日本古来の山岳信仰と密教の融合)が独自の立場を確立
- 朱熹(朱子)に構築された朱子学(儒学の一派)が日本に伝来
特に朱子学が強調する大義名分論は、後醍醐天皇に強く影響しました。
大義名分論
君臣の間には不変の秩序があり、これは守られるべきとする考え
後醍醐は、天皇=「主」、幕府=「従」があるべき姿とし、討幕を計画
修験道