天平文化(2)

表記について
概要
6世紀に公伝した仏教は、7~8世紀にかけて発展しました。特に8世紀には、鎮護国家の思想のもとに「国分寺建立の詔」「大仏造立の詔」が出され、大きく歩みを進めました。仏教は国家のために優先され、僧の活動は様々な面で規制されました。また、日本古来の神祇信仰のなかに仏教を浸透させるため、神仏習合が進められていきました。

奈良時代の仏教

人と神仏の関わり

人々は神仏の違いをはっきり理解しませんでしたが、とりあえず仏の方が優れていると考えました。特に奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」を鎮護国家と呼びます。国家管理下で仏教(寺院建立・仏像造立)に力が注がれ、行基ぎょうきのような民間布教は弾圧されました。

人と神

人と仏

仏が個人に与える恵みは現世利益
仏が国家に与える恵みは鎮護国家

神仏習合―意図的な働きかけ

8世紀初頭から、仏教者は仏教を浸透させるために、神祇じんぎ信仰の要素を仏教信仰に加えながら布教しました。
神祇信仰と仏教信仰の融合を神仏習合といいます。
当初この考えは、漠然として理屈も何もなく、平安時代に本地垂迹説ほんじすいじゃくせつとして理論化
神社の近辺や境内に神宮寺が建てられるようになった

神仏習合による「神=仏」の考え

仏教の6学派

仏教は釈迦の教えに従う宗教であるが、釈迦自身は教えを文字にしていません。
年月が経ち、弟子たちが釈迦の言葉を「経典」にまとめていきました。
まとめた内容に差異があり、経典は何百、何千種類にも分かれました。
僧は「この内容が釈迦の正しい教えだ」と思う経典を派閥ごとに研究しました。
奈良時代、南都六宗と総称される6つの学派が研究に力を注いだ。
南都六宗
三論さんろん宗・成実じょうじつ宗・法相ほっそう倶舎くしゃ宗・華厳けごん 宗・りつ
律宗
戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が、後に開いた学派

唐僧の招来

当初、日本では「受戒(僧になるための儀礼)」なしで僧になれました。
そして、僧になると税を免除されました。
読経もできずに、勝手に出家を宣言して僧となった私度僧しどそうが続出した。
「受戒」を義務化したいが、それを執り行える僧が日本にいませんでした。
唐から僧を招いたところ、753年、鑑真が渡来して戒律を伝えました。

鑑真

鑑真が上陸した坊津

坊津の鑑真記念館

国家管理下の仏教

仏教は国家の管理下に置かれ、僧の勝手な布教活動などは規制されていました。
行基ぎょうき民衆のために社会事業(橋・道路・灌漑施設の整備)に努めました
行基は民衆への仏教布教にも努め、民衆の支持を受けたので弾圧されました。
その後、聖武天皇は大仏造立に行基の力を利用しようと弾圧を止めました。

行基

天平の美術

2つの技法

当時の仏像の作り方は、金銅像の他に次の2種類が主流でした。

乾漆像

塑像

各寺院の仏像

東大寺法華堂ほっけどう

不空羂索ふくうけんじゃく観音像(乾漆像)
日光・月光がっこう菩薩ぼさつ像(塑像)
しつ金剛神像(塑像)

月光菩薩像(左)・不空羂索観音像(中)・日光菩薩像(右)

執金剛神像

東大寺戒壇院かいだんいん

四天王像(塑像)

執金剛神像

唐招提寺とうしょうだいじ

鑑真像(乾漆像)

鑑真像

興福寺

阿修羅像(乾漆像)

阿修羅像