概要
藤原氏の血を引く聖武天皇は、次期天皇に光明子(藤原不比等の娘)との子を望みました。しかし、聖武は男児に恵まれず、不安は増すばかりでした。また、聖武の不安は個人的な問題に限らず、流行病・信頼する人物の反乱という社会的不安もありました。このような国家の動揺に、聖武は仏教の力による安泰を試みました。
藤原氏の野心と懸念―元正天皇の代
新たな律令の準備
718年、
藤原不比等が中心となって
養老律令を編纂しました。
養老律令は大宝律令をほぼ継承し、また、この時点では編纂のみで施行されませんでした。
藤原不比等
不比等の子女
4人の息子
不比等の息子には、藤原武智麻呂(南家
の祖)・藤原房前(北家の祖)・藤原宇合(式家の祖)・藤原麻呂(
京家の祖)、以上4兄弟がいました。
4兄弟の子孫はそれぞれ「~家」と区別
藤原四子
藤原武智麻呂(前)・麻呂(後)
藤原房前
藤原宇合
2人の娘
不比等の娘には、宮子・光明子がいました。
文武天皇と宮子の子(後の聖武天皇)に、叔母の光明子が嫁ぎました。
藤原氏は皇族と血縁関係を結び、藤原氏の血を引く子孫の即位を望みました。
系図(番号は即位順)
警戒される人物登場
不比等の死後、長屋王
が政治の中心(太政官のトップ)に躍り出ました。
長屋王は天武天皇の孫で、皇太子(聖武)を血縁的に上回り、皇位継承もあり得ました。
長屋王は、皇太子(聖武)の即位を望む藤原氏から非常に警戒されました。
色塗り部分が「長屋王邸」(左京三条二坊)
口分田の開墾計画
人口増加のため、口分田が足りなくなりました。
722年、「百万町歩開墾計画」を発表しました。
Q.百万町歩の広さはどのくらい?
A.1万㎞2(*現在の日本の農耕地は4万5600㎢)
723年、三世一身法(別称:養老七年の格)施行
- 灌漑設備(溝・池)を設けて田地を開墾した場合は、3世(本人・子・孫)の間の私有を許可
- 既にある灌漑設備を利用して田地を開墾した場合は、1身(本人)だけの私有を許可
期限を過ぎれば、開墾した田地は国家が収公して口分田に充てます。
動揺する国家―聖武天皇の代
4兄弟の警戒
聖武天皇の即位後、藤原氏は聖武と妻光明子を皇后にすることを望みました。
皇后
夫の死後に天皇に即位できる立場なので、従来は皇族出身者のみ許可
聖武天皇
729年、長屋王の変
藤原氏が長屋王に反乱の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件
長屋王に代わり、藤原4兄弟が政権を握り、光明子を皇后にしました。
流行病―社会的不安①
天然痘が流行し、藤原4兄弟が相次いで病死しました。
藤原氏を抑え、橘諸兄が政権を握りました。
橘諸兄(684~757年)
橘諸兄は、もと皇族で葛城王と称しました。母の氏姓を継ぐことを許され、皇族から臣下に転じました。
反乱―社会的不安②
橘諸兄は遣唐使であった僧玄昉と吉備真備を重用しました。
玄昉は聖武に近づき、権威を利用したので人々から反感を買いました。
740年、藤原広嗣の乱
藤原広嗣(宇合の子、式家)が玄昉・吉備真備の排除を求めて挙兵した反乱
聖武天皇の動揺
社会的不安①②から、聖武は仏の力で国家を安定させる鎮護国家に努めました。
寺院の建立
741年、聖武は
国分寺建立の詔を発して、諸国に国分寺・国分
尼寺
を建立させました。
遷都計画と仏像の建立
藤原広嗣の乱を機に、橘諸兄は聖武に恭仁京
遷都を勧めました。
しかし、遷都決定後に聖武の関心は別の地紫香楽宮
に移りました。
聖武は紫香楽宮に仏の国を再現しようと、743年、大仏造立の詔を発しました。
相次ぐ放火で造立は中止され、平城京で造立を再開
その後も聖武は難波宮、そして紫香楽宮と移り歩り、やがて平城京に都を戻しました。
遷都の流れ
①平城京
↓
②恭仁京
↓
③紫香楽宮―743年、大仏造立の詔発令
↓
④難波宮
↓
⑤紫香楽宮―造立を中止し場所変更
↓
⑥平城京
三世一身法の見直し
灌漑設備を新たに作ることは大変で、大半の開墾地が一代限りの所有でした。
開墾した本人の死が近づくと、人々は収公される開墾地を手入れしなくなりました。
743年、墾田永年私財法
田地を開墾すれば、永久的な私有を認めました。
豪族・寺院は開墾に力を入れ、大規模な田地初期荘園を形成しました。
史料
三世一身法
原文
(養老七年四月)辛亥、太政官奏すらく、「頃者、百姓漸く多くして、田池窄狭なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇を開闢かしめん。其の新たに溝池を造り、開墾を営む者有らば、多少を限らず、給ひて三世に伝へしめん。若し旧き溝池を逐はば、其の一身に給せん」と。奏可す。
現代語訳
(養老七〈七二三〉年四月)辛亥(十七日)、太政官は次のように天皇に奏上しました。「最近、人口が増加したのに対し、田や池は少なく不足しています。よって、天下の人民に田地の開墾を勧め行わせたいと思います。その場合、新たに溝や池を造って開墾した者があれば、開墾地の多少にかかわらず三代目までの所有を許し、もし旧い溝や池を利用して開墾した時には本人一代のみに所有を許すことにしたいと思います」。天皇はこの奏上を許可しました。
解説
班田収授法の施行からしばらく経つと、人口の増加にあわせて6歳以上の男女に班給する口分田が不足してきました。そこで、既存の灌漑施設を使わずに新たな土地を開墾した者には、その土地を三世代(本人・子・孫)に限って私有してよい、また、既存の灌漑施設を使って開墾したした者には、開墾者本人に限って私有してよいとしました。例えば良民の男子に班給される口分田は2段のみだったので、それ以上の土地を欲する民衆はこぞって開墾するだろうと考えたのです。期限が過ぎた土地は朝廷が回収し、それを新たな口分田として民衆に班給すれば、朝廷自らがわざわざ開墾に乗り出さなくてもよいのです。公地公民制の原則を少し崩してしまいましたが、案の定民衆は開墾に乗り出しました。
墾田永年私財法
原文
(天平十五年五月)乙丑、詔して曰く、「聞くならく、墾田は養老七年の格に依りて、限満つる後、例に依りて収授す。是に由りて農夫怠倦して、開ける地復た荒る、と。今より以後は、任に私財と為し、三世一身を論ずること無く、咸悉くに永年取る莫れ。其の親王の一品及び一位は五百町、……初位已下庶人に至るまでは十町、但し郡司には、大領・少領に三十町、主政・主帳に十町。……」と。
現代語訳
(天平十五〈七四三〉年五月)乙丑(二十七日)、天皇は次のような詔を下した。「聞くところによると、墾田は養老七(七二三)年の格によって、期限が過ぎれば一般の公地と同様に収公してきたが、このため農民が意欲を失い、せっかく開墾した土地が再び荒廃してしまうという。今後は、開墾者の意のままに私有地として認め、三世までとか一身の間とかいわないで悉く永久に収公してはならない。但し私有地の限度は、親王の一品と諸王臣の一位の位階をもつ者は五〇〇町、……初位以下と庶民は一〇町とする。但し郡司については、大領・少領は三〇町、主政・主帳は一〇町を限度とする。……」
解説
朝廷は、口分田の不足を三世一身法で解決しようとしました。この計画は、当初うまくいくかに思えたのですが、朝廷が期限の過ぎた土地を回収するときに問題が生じました。民衆が期限の近づいた土地を放棄し、土地が荒れ地と化した状態になってしまっていたのです。このような土地を回収しても、口分田として班給することができません。遂に朝廷は開墾地の永久私有に乗り出します。公地公民制は完全に崩壊し、口分田の不足は未解決のままですが、私有地も課税対象なので構わないと考えたのです。
ポイント
- 「養老七年の格」とは、「三世一身法」のこと
- 墾田永年私財法の施行後、初期荘園と呼ばれる広大な私有地が形成されたこと