概要
		藤原氏は天武天皇の子孫と血縁関係を結び、血を引く者が即位することを望みました。孝謙天皇は天武~聖武天皇の血を引きますが、子をもたないために、期待に応えられませんでした。そこで藤原仲麻呂は光明子(孝謙の実母)と協力し、これまで注目されなかった淳仁天皇を即位させ、義父という立場から思うとおりに動かしました。
	
 
	
	即位と不安―孝謙天皇の代
	先行き暗い即位
	聖武天皇の息子はついに育たず、聖武はやむを得ずに娘の孝謙天皇を即位させました。
	女帝は独身か未亡人を条件とするため、子をもたない孝謙が即位しても、藤原氏の血を引く者への皇位継承は不可能でした。
	
孝謙天皇
	大仏の開眼供養
	752年、インド僧菩提僊那が、完成した東大寺盧舎那仏
				
			に目を点じました。
	
盧舎那仏
	藤原仲麻呂の台頭
	橘諸兄は従者に失言を密告され、罪は不問となりましたが辞職しました。
	藤原仲麻呂(南家、武智麻呂の子)が、光明子(光明皇太后、藤原不比等の娘)の後ろ盾で政治の実権を握りました。
	
	757年、仲麻呂は祖父藤原不比等が編纂した
養老律令を
施行しました。
 
	施行で祖父を顕彰し、あわせて自分の地位の強化を意図したのです。
	施行は橘奈良麻呂(橘諸兄の子)らから強く批難されました。
	
	757年、
橘奈良麻呂の変
		仲麻呂が奈良麻呂を含めた反仲麻呂派に反乱の疑いをかけ、一斉逮捕した事件
	 
	反発者たちが消え、仲麻呂は独裁政権を打ち立てました。
	
	太上天皇と天皇―淳仁天皇の代
	あくなき権勢追求
	藤原仲麻呂は光明子の協力で孝謙天皇を譲位させ、義理の息子である淳仁
			天皇を即位させました。
	即位の日、仲麻呂は淳仁から恵美押勝の名を与えられました。
	この他にも経済的特権を与えられ、果てには太政大臣に就任しました。
	淳仁は義父仲麻呂の言いなり 
	譲位後の天皇は「太上天皇(上皇)」と表記
	
淳仁天皇
	
義理の関係
	協力者の死
	孝謙と淳仁の仲を取り持っていた光明子が死去しました。
	ゆらぐ権勢と没落
	孝謙太上天皇が自身を看病した僧道鏡を寵愛しました。
	淳仁がこれを注意すると、孝謙と淳仁の仲はより悪化しました。
	孝謙が淳仁の権力を制限したので、仲麻呂の権勢はゆらぎ始めました。
	権力の優劣は「太上天皇≧天皇」
	
孝謙と淳仁の対立
	仲麻呂は仲間を次々と左遷され、苦境に立たされました。
	764年、
藤原仲麻呂の乱(
恵美押勝の乱)
仲麻呂による挙兵事件
	 
	仲麻呂は敗死し、廃された淳仁は淡路に流されました。
	乱後、孝謙は戦死した兵の弔いと鎮護国家の祈念のために、年代の明確な最古の印刷物である百万塔陀羅尼
		を印刷
	
百万塔陀羅尼
	皇位継承問題―称徳天皇の代
	道鏡の台頭と宇佐八幡神託事件
	孝謙太上天皇は再び即位して(重祚)、称徳天皇となりました。
	
称徳天皇
	
	道鏡は称徳の寵愛を受け、異例の早さで出世しました。
	765年、太政大臣に準じる太政大臣禅師に任じられました。
	766年、皇太子に準じる法王にまで上り詰めました。
	称徳は道鏡への譲位を望みましたが、周囲を納得させられる理由がありませんでした。
	
	769年、宇佐八幡宮の神官が称徳と結託し、神から「道鏡を天皇にすべき」とのお告げがあったと報告しました。
	称徳は神の意志の再確認するために、和気清麻呂
			を派遣しました。
	
和気清麻呂
	
藤原百川
	
	和気清麻呂が、反道鏡派の藤原百川
			(式家、宇合の子)らと示し合わせ、神の意志は「跡継ぎは必ず皇族にすべき」であった報告しました。
	神託を利用した称徳の譲位計画は失敗に終わってしまいました。
	清麻呂は称徳の怒りを買い、姉和気広虫とともに流刑処分
	天武系の断絶と天智系の即位
	称徳の死によって、次の2点が生じました。
	
		- 道鏡が没落し、下野国の薬師寺に左遷
 
		- 天武天皇の血統が断絶
 
	
	
	天智天皇の血統である光仁天皇が、藤原百川に擁立された即位しました。
	天皇の系統が、天武系から天智系に移行しました。
	
	擁立された光仁天皇は式家を重用
	
系図