民衆の暮らし

表記について
概要
奈良時代の民衆の生活、特に農民の生活は、当時の和歌や住居跡から辛うじて推測できる程度です。ところが厄介なことに、実態を捉えにくい農民の動きが、後の土地問題に大きく関わってきます。①税負担が嫌で逃亡・浮浪した農民がその後にどうなったか②初期荘園とは何か、以上2点は確実に理解したいです。

住居と税負担

憶良の和歌①

山上憶良やまのうえのおくらによる「貧窮問答歌ひんきゅうもんどうか」(『万葉集』収録)は、役人(憶良?)が貧しい農民に生活を問い、農民が答える場面を詠みます。
脚色もありますが、奈良時代の農民の生活を知ることができます。

山上憶良

貧窮問答歌

原文
天地あめつちは広しといへどが為は くやなりぬる[中略]Ⓐ伏廬ふせいほ曲廬まげいほうち 直土ひたつちわら解き敷きて[中略]かまど には火気ほけ吹き立てずこしきには蜘蛛くもの巣かきていひ かしくことも忘れて[中略]Ⓑしもと取る里長さとをさ が声は寝やどまで来立ち呼ばひぬかくばかり術無きものか世間よのなか の道Ⓒ世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

現代語訳
天地は広いと言うが、私にとっては狭くなってしまったのか。[中略]Ⓐ低くつぶれ、曲がって傾いた家の中に、地べたにじかに藁を敷いて[中略]カマドには火の気がなく、飯炊き用の土器には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで[中略]Ⓑ鞭をもった里長の呼ぶ声が、家の中にまで聞こえてくる。世の中を生きていくことはなぜこれほど難しいのか。Ⓒ世の中を辛くやせ せるように耐えがたく思うが、鳥ではないから飛んでいくこともできない

貧窮問答歌が描写する生活

住居の変化
貧窮問答歌の下線部Ⓐのように、貧しい農民の住居、竪穴住居でした。
ただし、掘立柱住居ほったてばしらじゅうきょという住居が、西日本から次第に普及していました。
寺院などは、礎石を用いた瓦葺かわらぶき建築

竪穴住居(左)・掘立柱住居(右)
税負担からの逃避
貧窮問答歌の下線部Ⓑは里長によるの税の取り立てです。
税負担は重く、下線部Ⓒのように農民は「飛んで逃げたい」と思うほどでした。
実際に負担から逃げた農民もいました。
浮浪・逃亡の違いは、呼ぶ側の視点

田地の借用と利息

農民は、口分田班給後の余剰地乗田を借りること(賃租ちんそ)ができました。
ただし、利息として収穫の20%を納入しなくてはなりませんでした。
生活が貧しくても、容易には借りられませんでした。
口分田は租(広さ1段当たり稲2束2把で、収穫の3%に相当)を納入

「浮浪」「逃亡」者の行方

浮浪・逃亡している農民は、寺院・豪族のもとに仕えました。
寺院・豪族は、農民を養って田地開墾のために使役しました。
743年に施行された墾田永年私財法に従い、寺院・豪族は大規模な田地初期荘園を形成していきました。
初期荘園
租が掛かる輸租田という扱い

税負担を避ける別の方法

当初、日本では「受戒(僧になるための儀礼)」なしで僧になれました。
そして、僧になると税を免除されました。
読経もできず、勝手に出家を宣言して僧となった私度僧しどそうが続出しました。
「受戒」を義務化しようとしたのですが、それを執り行える僧が日本にいませんでした。
唐から僧を招いたところ、鑑真がんじん が渡来して戒律を伝えました。

鑑真

結婚形態

憶良の和歌②

七夕伝説の和歌

原文
かすみ立つ天の川原に君待つといかようほどに すそれぬ

現代語訳
霧が立ちこめる天の川の川原で、牽牛を待って行きつ戻りつしていると、裳の裾が濡れてしまった。

七夕伝説に反映された結婚形態

上の和歌は、七夕伝説の織女(織姫)が牽牛(彦星)を待っている場面を詠んでいます。
七夕伝説は元々中国生まれの伝説で、内容も日本の七夕伝説と少し異なっています。

中国の七夕伝説
日本の七夕伝説
古代の日本の結婚は、夫婦別居で夫が妻の住む家に通う、あるいは妻の家に同居しました。
上の和歌のように、妻は夫が来るのを今か今かと家で待つ身でした。
このような古代の結婚形態を妻問婚を呼びます。
このように中国と日本の七夕伝説が異なるのは、妻問婚のように結婚形態が違うからだと考えられています。