概要
天武天皇は、6世紀に編まれた「帝紀」「旧辞」の訂正・集成、および中国に倣って勅撰国史の編纂に臨みました。編纂は天武の死後に一時中断しましたが、それぞれ712・720年に完成しました。以降、勅撰国史は中国への意識が低下する10世紀まで編纂され続けました。和同開珎の鋳造とあわせ、天平文化への唐(盛唐)の影響は大きいです。
歴史書と地誌
2つの歴史書
歴史書①
6世紀、「帝紀」(大王の系譜)・「旧辞」(朝廷の伝承)が編纂されたと考えられます。
天武天皇は、豪族のもつ「帝紀」「旧辞」の写本に誤りが多く、また、不必要な部分を削って一書にまとめるべきとし、訂正・集成に臨みました。
写本の過程での誤りに加え、「帝紀」「旧辞」は難解で誤読も多発
712年、『
古事記』
元明天皇の命令で、稗田阿礼
が「帝紀」「旧辞」の内容を正しく誦習し、それを太安万侶が整理しながら漢字で筆録
物語的要素が強く、神話・伝承も含んだ、天皇家による国土統治の歴史書
太安万侶
歴史書②
天武は中国に倣い、勅撰による国史を古事記とは別に編纂して、支配の正当性や権威を示そうとしました。
720年、『
日本書紀』
舎人親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述
勅撰による国史は、10世紀の『日本三代実録』まで計6つ編まれ、六国史と総称されました。
編年体
出来事を年代順に記述する、中国の国史の記述法
日本三代実録
醍醐天皇の御代である901年に完成
六国史
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀
』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』
舎人親王
地誌
713年、諸国の国司に、国の地誌『風土記
』の編纂が命じられました。
国司は、国内の地名とその由来・動植物・伝承をまとめました。
まとめる際に、国・郡・里の名称は、縁起の良い2字に改名(例:泉→和泉)
現在、5カ国(常陸・出雲・播磨・豊後
・肥前の『風土記』の写本が残っています。
この中で、欠損部分がない(完本である)のは、『出雲国風土記』です。
文学と学問
漢詩
漢文でやりとりされる律令体制では、貴族・官吏に漢文の学習が求められました。
そのため、漢詩をたしなむことが貴族・官吏の間で流行しました。
漢詩文集
751年、『
懐風藻』
7世紀後半の漢詩を収めた、勅撰ではない最古の漢詩文集
代表的な文人・編者候補
石上宅嗣
自宅に公開図書館芸亭を設置した人物
淡海三船
神武~光仁天皇までの漢風諡号を定めた人物か
石上宅嗣
天皇の名付け親!?―淡海三船
原則として、「推古」天皇や「天武」天皇など「」部分は、その天皇の死後に名付けられます。これを諡号(諡
)と言います。諡号は誰が考えたのでしょうか。諸天皇や武(雄略天皇)など大王の諡号を考えたのは、淡海三船とされています。
さて、諡号はその天皇の業績に関連します。例えば、「推古」は「古を推しはかる」の意味です。「冠位十二階」「憲法十七条」は後世の貴族に重視されたため、2つに関わった天皇ならではと言えます。このように、諡号から当時を知ることもできます。
和歌
漢詩に比べると、和歌は天皇から庶民にいたるまで広く詠まれました。
『
万葉集』
8世紀半ばまでの和歌を収めた、勅撰ではない最古の和歌集
東国(三河以東)から集められた東歌
、兵役で九州に向かう防人が詠んだ防人歌など、作者不明とされる下級官人・庶民の和歌も多く収録
大伴家持(編集候補)
教育制度
教育機関は律令に従って整えられ、次の2種類に大別できます。
- 大学
式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関
一定以上の位階の者の子弟が優先して入学
- 国学
国司の管轄下で、地方(国)に置かれた教育機関
郡司の子弟が優先して入学
教科には、例えば次の3種類がありました。
- 明経道
五経や『論語』などの儒教の経典を学ぶ教科
- 明法道
律令などの法律を学ぶ教科
- 紀伝道
漢詩・歴史を学ぶ教科(9世紀に重視)
これらの教科の修了後には位階がもらえました。