概要
唐風の文化を日本の生活にふさわしい形に作り変える「国風化」の傾向は、既に奈良時代から見られていました。国風化は、唐への関心が薄れた9世紀末からさらに加速していきました。従って10~11世紀に形成された文化を国風文化と呼びます。かな文字による物語や鎌倉仏教に繋がる浄土教が登場するなど、広く奥の深い文化と言えます。
加速する国風化の背景
公的な交流の断絶―背景1
894年、菅原道真は次の2点を理由に遣唐使中止を建議しました。
- 唐の衰退
- 渡航の危険性(8世紀初めからの航路:南路)
唐との公的な交流は断たれました。
①②の他に、唐の商人との貿易を確立でき、公的な交流が不要になったから
907年、唐が滅亡し、その余波で周辺の国々に興亡が生じました。
中国は宋に再統一され、中国東北部の渤海
は契丹(遼)に滅ぼされました。
また、朝鮮半島の新羅は高麗に滅ぼされました。
公的な交流はありませんでしたが、宋・高麗の商人が九州博多によく来航しました。
僧以外の日本人の渡航は律で禁止
8~9世紀の東アジア
10世紀の東アジア
中国への関心低下―背景2
9世紀末以降、中国の物品以外(文化・制度)に対する貴族の関心が低下していました。
中国に倣った事業のうち、醍醐天皇は正史(六国史
)編纂を、村上天皇は貨幣(本朝十二銭)発行を止めました。
本朝十二銭の最初(和同開珎)と最後(乾元大宝)
国文学と国風美術の発達
文字の発達
漢字をもとにしたかな文字(平がな:草書体の簡略化、片かな:字の一部分)が発達しました。
公式な文書でのかな文字の使用は避けられましたが、物語や日記では広く使われました。
代表的な著作物
かな物語
『
竹取物語』
かぐや姫の誕生や貴族の求婚失敗などを描く、最古のかな物語
『
伊勢物語』
主人公のモデルが在原業平である、和歌を中心とした歌物語集
『
源氏物語』
11世紀初め、紫式部が光源氏の生活を題材に著したかな物語
紫式部
随筆・日記
『
土佐日記』
10世紀に土佐国で国司を務めた紀貫之
の日記
『
蜻蛉日記』
藤原道綱の母の作で、藤原兼家に嫁いだ女性の苦悩を記した日記
『
更級日記』
菅原孝標の女作で、少女時代からの体験を記した日記
『
枕草子』
11世紀初め、清少納言が宮廷生活の体験を著した随筆
『
小右記』
藤原道長の「望月の歌」を書き留めた藤原実資の日記
『御堂関白記』
藤原道長が宮廷政治と日常生活の様子を記した日記
清少納言
和歌集
『
古今和歌集』
醍醐天皇の勅命で紀貫之らが編纂した勅撰和歌集
八代集
『古今和歌集』から『新古今和歌集』(鎌倉時代)までの、8つの勅撰和歌集の総称
紀貫之
国風美術
蒔絵
漆で文様を描き、金銀の粉を固着させる漆器の技法
螺鈿
貝殻の一部を薄く剥ぎ、種々の形に切って漆器に埋め込む技法
大和絵
日本風景を題材とする絵画で、初期の画家は巨勢金岡が有名
和様
小野道風・藤原佐理(離洛帖が有名)・藤原行成の3人は、和様の達筆家として知られ、三蹟と総称
語呂
唐風(道風)は去り(佐理)て行くなり(行成
)
花札(蛙と小野道風)
信仰の発達
浄土教の布教
釈迦の死没後2000年が経つと(1052年以降)、釈迦の教え(解脱の方法)は効果を失い、また、世の中は乱れるという考え末法思想が一部の者のなかにありました。
これらの者は、死後に阿弥陀仏(如来)の慈悲で仏の世界(極楽浄土)へ往き(往生)、そこで仏の直接指導のもと解脱を遂げればよいとする教え浄土教を人々に説きました。
貴族や庶民に浄土教は広がり、信仰の対象である阿弥陀仏の美術品が作成されました。
阿弥陀仏
浄土教に関わる人物と著作
空也
10世紀、京の市で浄土教を説き、「市聖」と呼ばれた人物
源信(
恵心僧都)
念仏による往生を説き、『往生要集』を著した人物
慶滋保胤
往生した人の伝記を収録する『日本往生極楽記』を著した人物
空也像(六波羅蜜寺所蔵)
浄土教と美術
寺院と仏像
法成寺
藤原道長が創建した、阿弥陀堂を中心とする寺院
平等院鳳凰堂
藤原頼通が建立した平等院の阿弥陀堂
本尊の阿弥陀如来像は定朝の作
定朝
末法思想を背景とする仏像の大量需要に応えるため、一木造に代わる寄木造の技法を完成させた人物
平等院鳳凰堂
定朝作の阿弥陀如来像
寄木造
絵画
来迎図
死者の往生のために、阿弥陀如来が来迎する様子を描く絵画の総称
来迎図
浄土教以外の信仰
経塚
写経した経典を筒に入れて土中に埋納し、その上に築いた塚
本地垂迹
説
仏教信仰に神祇信仰の要素が融合する神仏習合のなか、神と仏の並存状態を説いた理論
人の救済のため、仏(本地)が神という仮の姿(垂迹)で現れたと納得・説明
御霊会
災いを起こす怨霊(例:菅原道真)や疫神を慰め、祟りを逃れようとする鎮魂の祭礼