鎌倉文化―公家文化の自覚

表記について
概要
東国に武家政権が樹立し、鎌倉時代の幕が開かれました。新時代の文化の第一線で活躍したのは、公家でした。公家は武士の興起から新政権樹立という歴史の動きに衝撃を受け、文化の担い手としての自覚を深めて、鎌倉時代の新しい文化をまず生み出しました。そもそも、何世紀にもわたって中国文化の受容と国風化を担ったのは公家であり、文化の伝統から遠い武家が独自の文化をもつには、長い年月を必要としました。
やがて鎌倉時代も半ばを過ぎると、武士・庶民の動きと密接なつながりをもつ文化が生まれていきました。

文学の新傾向

和歌

職業的な専門歌人が登場して、歌の指導・優劣の判定を勤めました。
専門歌人の登場の一方で、後鳥羽上皇は和歌に異常な意欲を示し、13世紀初頭、藤原定家さだいえらに『新古今和歌集』を編纂させました。
藤原定家
小倉百人一首の選者
新古今和歌集
八代集の最後を飾る勅撰和歌集

後鳥羽上皇

藤原定家
13世紀初頭には、優れた歌集が新古今和歌集の他にも登場しました。
金槐きんかい和歌集
藤原定家に学んだ3代将軍実朝さねともの歌集
山家集さんかしゅう
もと武士で、出家して諸国を遍歴した西行さいぎょう の歌集
『金槐和歌集』
「金」とは鎌の偏を表し、「槐」とは大臣の中国名である槐門の意

源実朝

西行

随筆と説話

随筆

方丈記
平安末期の災厄を描き、人や社会の無常を嘆く鴨長明かものちょうめいの随筆
徒然草つれづれぐさ
14世紀の動乱期を深い洞察力で描く兼好法師の随筆
『方丈記』『徒然草』
和漢混淆文こんこうぶんの代表作

鴨長明

兼好法師

説話

十訓抄じっきんしょう
作者不詳の儒教的説話集
沙石集しゃせきしゅう
無住むじゅうの仏教説話集
古今著聞集ここんちょもんじゅう
成季なりすえ の作で、貴族文化に関する説話集

紀行と日記

鎌倉が政治の拠点になると、京都・鎌倉間を往復する人が増加しました。
海道記』『東関紀行』などの紀行(旅行中の体験記)が登場しました。
十六夜いざよい日記
阿仏尼あぶつに の日記で、夫藤原為家(定家の子)の所領訴訟のために鎌倉に下る話などの紀行も記録
十六夜日記
太陰暦16日の夜に京都を出発したことに由来
阿仏尼
訴訟の結果を待たずに死去

阿仏尼

軍記

院政期に軍記物語が登場して以来、合戦記録は公家の関心を引きました。
『保元物語』
保元の乱(1156年)を題材とする軍記物語
『平治物語』
平治の乱(1159年)を題材とする軍記物語
平家物語
平氏の興亡を題材とする軍記物語
平家物語は琵琶びわ法師によって平曲として語られました。
平家物語
『徒然草』に「行長入道ゆきながにゅうどう、平家物語をつくりて」とあり、作者は信濃しなのの 前司ぜんじ行長ゆきなが
平曲
琵琶を弾きながら平家物語を語る音楽

盲目の漂白民―琵琶法師
古くから賎民せんみん の中には、琵琶の弾奏をおこなう者がいました。平安時代中頃から雅楽の系統を引く音楽が庶民に浸透し始めると、盲僧琵琶に雅楽を加味した琵琶法師が現れました。鎌倉時代後期に漂白の賎民である琵琶法師が『平家物語』を広めたことは、文化の担い手の中心が公家であった前期から後期への推移をよく伝えます。


学問と思想

歴史と古典研究

歴史書

社会変動の中で、公家社会の推移を見つけようとする気運が生じました。
藤原忠通の子で天台座主ざす慈円じえん は、『愚管抄ぐかんしょう』を著しました。
『愚管抄』
物事には全てそれがそうである道理があり、特に歴史を貫く大きな道理を模索した歴史書

慈円

その他の歴史書

吾妻鏡あずまかがみ
鎌倉幕府が編纂した歴史書
『水鏡』
「四鏡」の1つで、鎌倉時代初期に成立
元亨釈書げんこうしゃくしょ
虎関師錬 こかんしれんが著した、鎌倉時代末に成立した日本仏教史
『吾妻鏡』
幕府の行事も掲載されるが、ほとんどが公家の年中行事
武家文化が、公家文化を大きな土台にして成立していた証拠

古典研究

過ぎ去った良き時代への懐古・尊重から、公家社会の儀礼・年中行事・官職などを研究する有職故実 ゆうそくこじつという学問が盛んになりました。
承久の乱後に配流された順徳上皇は、著書『禁秘抄』で有職故実を解説

公家文化の受容・理解

鎌倉時代前期、幕府・武士は公家文化の受容・理解に努めました。
北条(金沢)実時さねとき金沢文庫を建て、京都から書物を収集しました。
金沢文庫
鎌倉の外港として栄えた六浦むつらの金沢に立地

北条実時