概要
朝廷の衰退、荘園公領制の発展が進んだ鎌倉時代には、社会に様々な変化が生じました。物資調達のために各地で市場が開かれ、物流の円滑化を目的に、都のみであった貨幣経済が各地で普及しました。物々交換は最早通用せず、誰もが貨幣を求めました。武士も例外ではありません。武士は貨幣経済の渦に巻き込まれ、やがて窮乏の一途を辿りました。
鎌倉時代の社会
物流の変化
次の図のように、田地で入手不可な物を調達しなければならないことがありました。
定期市が交通の要所や寺社の門前に開かれました。
月に3度開かれる定期市である三斎市が見られました。
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京都・奈良・鎌倉には、今日の常設店のような見世棚
がありました。
見世棚
商品を「見せる」に由来し、後に転じて「店」と呼称
市のある日
市のない日
見世棚
定期市で取り扱われる物資は、誰かが産地から運んでくる必要がありました。
中央・地方間の物流を担う行商人が登場しました。
港・河川付近には、船による水上輸送業者問丸が登場し、荘園から徴収した年貢の輸送や保管にもあたりました。
手工業の変化
平安時代後半から、技術者集団は民間で活躍しはじめました。
同業者同士で座という団体を組織し、活動地域などを決め合いました。
神社・朝廷に奉仕することで特権を得た座も存在し、神社と結んだ座を神人、朝廷と結んだ座を供御人
と呼びました。
座
閉鎖的で新規加入に厳しいため、後に戦国大名は楽座でこれを解体
農業の変化
鉄製農具や耕作に牛馬の畜力を使う牛馬耕の普及に加え、夏季に米を、冬季に麦を育てる二毛作が西日本で普及しました。
消耗した地力を回復させるため、肥料が必要になりました。
刈った草を敷く刈敷、あるいは草木
を灰にした草木灰で地力を回復しました。
鎌倉時代に多収穫米である大唐米が輸入され、室町時代に西国で普及
油(灯油)の原料になる荏胡麻などを栽培
貨幣流通の変化
物の取引が盛んになると、地方にも貨幣経済が浸透しました。
大量の貨幣を必要としたが、
乾元
大宝の鋳造以来、日本での貨幣鋳造はありませんでした。
日宋貿易で輸入した
宋銭を日本の貨幣のように利用しました。
宋銭の輸入
貨幣経済が浸透すると、①高額の資金を一度に用意することや、②遠方へ高額の送金をすることが度々生じるようになりました。
このような場面に対し、次のような業者や仕組みが出てきました。
- 借上という高利貸
業者が登場
- 現金を手形(割符)で代用する為替
を利用
女性に金を貸す借上
割符(右)
割符(右)
幕府の動揺
御家人の窮乏
次の①~③の理由で、多くの御家人は窮乏しました。
- 借金までして奮闘した蒙古襲来で新たな土地獲得なし
- 分割相続による田地の細分化
- 貨幣経済の発展に巻き込まれたこと
一期分
一代に限り所有を認め、死後は惣領に返す田地(②対策)
女性は、相続が減らされたり一期分にされたりし、地位が低下(②対策)
③はどういうことか!?
荘園領主が年貢などの負担を銅銭で納める代銭納を要求しました。
しかし、御家人の収入は田地からの現物収入でした。
御家人は貨幣調達のために、田地を売買・質入れしました。
姑息な手段のため、御家人は収入源(田地)の消滅で窮乏しました。
1297年、
永仁の徳政令発布
買い手は売却後20年未満の田地を御家人に返却
執権北条貞時の時に出された法令
効果は一時的でかえって経済が混乱し、幕府は御家人からの信用を失いました。
幕府滅亡の兆し
土地を失った武士や蒙古襲来で恩賞を得られなかった御家人の一部は、幕府や荘園領主の支配に武力で抵抗し、悪党と呼ばれました。
悪党
対策のために得宗専制政治が強化されましたが、反発を強めただけでした。
このような不満は幕府滅亡の要因となりました。
史料
永仁の徳政令
原文
関東御事書の法
一質券売買地の事
右、所領を以て或いは質券に入れ流し、或いは売買せしむるの条、御家人等侘傺の基なり。向後に於いては、停止に従ふべし。以前沽却の分に至りては、本主領掌せしむべし。但し、或いは御下文・下知状を成し給ひ、或いは知行廿箇年を過ぐるは、公私の領を論ぜず、今更相違有るべからず。若し制符に背き、濫妨を致すの輩有らば、罪科に処せらるべし。
次に非御家人・凡下の輩の質券買得地の事。年紀を過ぐると雖も、売主知行せしむべし。
現代語訳
鎌倉幕府が出した箇条書の法令
一、質流れになったり、売買した所領の事
これについて、所領を質に入れて流したり、売却することは、御家人らの困窮の原因である。今後は(所領の質入れや売買を)禁止する。これまでに売却した分については、売った元の所有者が領有せよ。ただし買った後に将軍家の下文や下知状をいただいたり、支配後20年
を経過したものについては、公領・私領にかかわりなく、今さら現状を変更することはしない。もし、規定に反して実力で奪おうとする者があれば処罰する。
次に、御家人以外の武士や庶民が質流れによって得た土地や買った土地については、20年の年限を経過していたとしても、売主のものとする。
解説
鎌倉時代の後半、御家人は、分割相続による所領の細分化や蒙古襲来の負担と無恩賞で窮乏化していました。また、貨幣経済が発展する中で、物の購入に貨幣が必要になりました。そこで御家人は、窮乏を乗り切るために、あるいは貨幣を工面するために、所領を売りました。しかし、所領は彼らの収入源(米・野菜などの現物での)です。それを売ることは姑息的な手段に過ぎず、御家人たちは、また窮乏していきました。この事態に、鎌倉幕府は御家人の救済の必要性があると判断し、永仁の徳政令を出しました。
ここでいう「徳政」とは、「売ってしまった土地や借りてしまった金などを元の状態に戻すこと(約束を破棄すること)」を指しています。後に出てくる「徳政一揆」とはこの「徳政」を要求します。余談ですが、平安時代の「徳政論争」の「徳政」とは、意味するところが少し異なります。
さて、永仁の徳政令によって土地を取り戻せた御家人ですが、新たな問題にぶつかりました。土地を無償で取り返されてしまった商人(借上など)が、以後御家人との金銭のやりとりを避けるようになったのです。貨幣経済の発達上、御家人は商人とのやりとりで貨幣を工面するほかなく、このような商人の態度はかえって御家人を困らせました。幕府による徳政令は結局その場しのぎに過ぎず、さらには混乱を巻き起こしただけでした。「皮肉な(1297)結果の徳政令」とはよく言ったものです。