藤原氏北家の台頭

表記について
概要
北家の藤原冬嗣は嵯峨天皇の信頼が厚く、秘書官とも言える蔵人頭に任命されて「薬子の変」で活躍しました。嵯峨の冬嗣に対する信頼は、嵯峨の子と冬嗣の娘が結婚したことからも分かります。冬嗣以降、北家の者たちは娘を次々と天皇に嫁がせ、権力を強めていきました。また、政敵の排除にも努め、969年には不動の地位を確立しました。

強まる北家の権勢

藤原氏の戦略―外戚と外祖父

古代の貴族社会では、子は母方で育てられました
母方の親戚外戚、とりわけ母方の祖父外祖父は子に強い発言力を持ちました。
藤原氏北家の者は娘を天皇に嫁がせ、皇子に対する発言力を得ました。

外戚と外祖父

大出世とライバル排除

藤原冬嗣の子藤原良房よしふさ は、娘を天皇に嫁がせて勢力をのばしました。

良房の出世

858年、成人が即位するという慣例を破り、幼少の清和天皇が即位すると、外祖父の良房は、天皇に代わって政務を担当する摂政に事実上なりました。
摂政
従来皇族が就く職で、事実上ではあるが良房は臣下として初

良房のライバル排除

842年、承和の変
謀反の疑いで、三筆の橘逸勢が排除された事件
866年、応天門の変
伴善男とものよしお が応天門の放火を手引きして、源信みなもとのまこと に罪を着せたことが露見し、排除された事件
2つの事件は良房の陰謀とされるが、応天門の変は真相不明

応天門の変(『伴大納言絵巻』の一場面)

職名の解釈と波乱

藤原良房の後を継いだのは、養子の藤原基経もとつねでした。
基経は陽成天皇を譲位させ、光孝天皇を擁立して即位させました。
擁立に報いるため、884年、光孝は基経を補佐役(事実上の関白)にしました。
関白
成人後の天皇の補佐役で、884年の時点では職名なし
光孝の子宇多天皇は、父同様に基経を待遇しようとしました。
宇多は、基経が勤めてきた補佐役に、「阿衡あこう」という職名を付けて基経を再任しました。
「阿衡」の解釈をめぐり、888年、阿衡の紛議と呼ばれる抗争が生じました。

職名「関白」

888年、宇多天皇は補佐役の職名を関白と改め、藤原基経を任命しました。
関白
令外官の1つで、職名は「天皇への意見をあずかもうす」の意


不動の北家勢力

親政と摂政関白の常置

藤原基経の死後、藤原氏を外戚としない宇多天皇は摂政・関白を置きませんでした。
宇多は学者菅原道真すがわらのみちざね を重用して政務に取り組みました。
「阿衡の紛議」時、道真は基経をいさめたので宇多の信頼を獲得
菅原道真
六国史の分類・再編をおこない、『類聚るいじゅ国史 』を編纂

菅原道真
宇多の子醍醐だいご天皇の御代、道真は藤原時平の策謀で失脚し、大宰府に左遷されて失意のうちに死去したため、北野神社まつられました。
その後、醍醐は親政をおこないました。
親政
摂政・関白を置かずに天皇自身が政治をおこなうこと

藤原時平

雷神と化した菅原道真

北野神社(北野天満宮)
醍醐の子村上天皇も親政をおこなった。
醍醐と村上の間、朱雀天皇のもとで藤原忠平が摂政・関白に就任
忠平
早世した時平の弟で、時平の立場を継承
969年、安和の変源高明が左遷されました。
藤原氏北家の勢力を阻止できる人物が消え、以降摂政・関白が常置されました。
摂政・関白が常置された10世紀後半~11世紀の政治を摂関政治と呼びます。
北家のなかでも、特に摂政・関白を出す家柄は摂関家と区別

醍醐天皇と村上天皇の時代

醍醐天皇と村上天皇は、摂政・関白を置かずに親政をおこないました
藤原氏との協調が比較的保たれ、後世には理想の政治とされました。
2人の天皇が治めた時代は、元号に基づき延喜・天暦の治と呼ばれます。

醍醐天皇の事業

902年、延喜の荘園整理令発令
六国史最後の『日本三代実録』完成
八代集最初の『古今和歌集』編纂命令

村上天皇の事業

本朝十二銭最後の『乾元大宝』完成

内部争いの終結

摂関家の内部では摂政・関白の地位をめぐり、次の2件のような争いがありました。
勝利した道長は、4人の娘を天皇に入内じゅだいさせ、約30年間権勢をふるいました。
道長の子藤原頼通よりみち は3人の天皇の摂政・関白になりました。

藤原伊周

史料

藤原道長の栄華(出典:『小右記』)

原文

(寛仁二年十月)十六日乙巳、今日、女御藤原威子を以て皇后に立つるの日なり。前太政大臣の第三の娘なり、一家三后を立つること、未だ曾て有らず。…太閤、下官を招き呼びて云く、「和歌を読まむと欲す。必ず和すべし」者。答へて云く、「何ぞ和し奉らざらむや」。又云ふ、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構に非ず」者。「此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」。余申して云く、「御歌優美なり。酬答に方無し、満座只此の御歌を誦すべし。……」と。諸卿、余の言に響応して数度吟詠す。太閤和解して殊に和を責めず。

現代語訳

(寛仁二〈一〇一八〉年)十月十六日、今日は女御の藤原威子を皇后(後一条天皇の正式な妻)に立てる日である。威子は前太政大臣の三女である。一家から三人の后が立つとは前例のないことである。…太閤(藤原道長)が私(藤原実資)をまねいて「和歌を詠もうと思うが、君も必ず返歌を詠め」というので、「きっと返歌をお詠みいたしましょう」と答えた。するとまた、「(今日のことを)誇らしく思ってつくった歌だが、あらかじめつくっておいたものではない。」といって、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」と歌った。私は「この御歌は優美で、これに見合う返歌を詠むなどということはとてもできません。みなそろってこの御歌を唱和するのがよろしいでしょう。…」と申し上げた。諸卿も私の言葉に応じて数度吟詠した。太閤も機嫌をよくして改めて返歌を求めなかった。

解説

藤原道長は、娘の彰子・妍子・威子を次々と天皇の妻にしていきました。上記の史料は、威子が后となった日の宴を描写しています。描写している人は藤原実資で、『小右記』という日記にまとめています。
宴の最中、藤原道長は傍にいた藤原実資に返歌をするように求めた後、「この世をば~」と詠いました。和歌を聞いた後、実資は返歌を遠慮し、みんなで道長の和歌を詠みましょうと提案しました。道長の和歌の解釈は様々ですが、一説には摂関家の栄華を誇っていると言われています。望月、つまり満月のようにその権力が満ち足りているというわけです。
余談ですが、藤原道長の日記『御堂関白記』から道長の生活・体調を分析すると、重度の糖尿病と分かるそうです。一族の絶頂を誇る一方で、自身はボロボロという虚勢を考えると、「この世をば~」の解釈を少し変わってくるかもしれません。

藤原道長

ポイント