蒙古襲来

表記について
概要
13世紀、アジア・ヨーロッパにまたがるモンゴル帝国が形成されました。5代皇帝フビライ=ハンは、国号を元と改め、日本に服属を求めました。これを幕府が拒否したため、元は2度にわたって日本を襲いました。襲来を機に、幕府は非御家人を動員する権限を得ましたが、反面、防衛費負担が問題となって幕府崩壊の要因を作りました。

蒙古襲来

大帝国「元」

13世紀初め、チンギス=ハンがモンゴル系遊牧民を統一しました。
やがて東は中国東北部、西はイランにいたる帝国を建国しました。
チンギス=ハンの子は金を滅ぼしました。
この頃、帝国はユーラシア大陸の東西に拡大

チンギス=ハン

支配域の拡大
チンギス=ハンの孫で5代皇帝のフビライ=ハンは、帝国の首都を大都だいと (北京)に定め、また、国号をと改めました。
フビライ=ハンは朝鮮半島の高麗を全面的に服属させました。
さらに1268年、フビライ=ハンは日本に服属を求める国書を送りました。
当時、大陸では日本を黄金の島ジパングと伝える噂あり
高麗
服属後も高麗で1270~73年に三別抄さんべつしょう の乱が発生

フビライ=ハン
アジアの見聞者―マルコ=ポーロ
父ニコロに連れられて、16歳のマルコ=ポーロはフビライ=ハンに拝謁はいえつ しました。帰国後に獄中で彼が語った体験は『東方見聞録』にまとめられました。この本によって黄金の島ジパングのイメージは強調され、西洋で広まりました。なお、このイメージは平泉中尊寺金色堂の話が元と言われます。

襲来の予感

元の国書が届く数年前、北条時頼の子北条時宗惣領そうりょう になりました。
北条時宗の頃から北条氏の惣領を得宗と呼びました。
得宗
北条義時の戒名に由来し、この地位の者が原則的に執権を継承

北条時宗
1268年、元の国書が到着しましたが、朝廷は返書しませんでした。
度々国書が到着しましたが、幕府も「返書の必要なし」と回答を拒否しました。
幕府は元の襲来に備え、御家人の奉公に異国警固番役を新たに加えて、九州北部の沿岸を防備させました(制度化は文永の役後)。

蒙古襲来

1274年、文永の役

元軍(高麗軍との連合軍)が九州に襲来し、火器や集団戦法に御家人は苦しみましたが、元軍は途中撤退しました(理由:暴風!?)。

『蒙古襲来絵巻』(「文永の役」の場面)
竹崎季長たけざきすえなが (右)が自身の奮戦を描かせた絵巻

てつはう
再度の襲来に備え、幕府は博多湾沿いに石築地防塁)を構築しました。
一方、その後の元は南宋を滅ぼして、日本への2度目の遠征を計画しました。

防塁(石築地)

1281年、弘安の役

元軍が軍を東路軍(元軍と高麗軍の連合軍)と江南軍 (旧南宋軍)の二手に分けて再来しましたが、石築地などで苦戦し、暴風をうけて撤退しました。

『蒙古襲来絵巻』
*「弘安の役」最中の竹崎季長と防塁
フビライ=ハンの死で、3度目の遠征計画は消えました。
元の2度の襲来を蒙古襲来元寇)といいます。

蒙古襲来後、御恩奉行に面会する御家人
*安達泰盛(左)・竹崎季長(右)

蒙古襲来後の政治

幕府の支配権強化

蒙古襲来後、次の①②で幕府の支配権は強化されました。
鎮西探題
北条氏が務めた、九州の政務・裁判・御家人の統率を担う機関

政治体制の変化―合議から独断へ

蒙古襲来に際して、幕府内の権力が得宗かつ執権の北条時宗に集中しました。
得宗の従者を意味する御内人の発言力が高まり、御家人と対立しました。
御内人の代表は内管領と呼ばれ、幕府の政治を度々主導
1285年、霜月騒動
時宗の子北条貞時さだとき が得宗となった翌年の出来事
内管領の平頼綱が有力御家人安達泰盛を滅ぼした事件
やがて、北条貞時は平頼綱を滅ぼして、幕府の全権を握りました。
以後、執権を務める得宗の独断で、幕府の政治がおこなわれました。
幕府の政治は、合議を重んじる執権政治から得宗専制政治に変化しました。