概要
開発領主は開墾地を荘園領主に寄進し、国司からの重税を避けました。そして、自らは荘官として田地管理に努め、次第に管理する田地を自らの所領のように扱っていきました。一方で、彼らは有力な軍事貴族と主従関係を結び、田地をめぐる争いを有利に運ぼうとしました。このような動きから、武士と呼ばれる者が登場しました。
武士社会の概観
武士の位置づけ
武士の住まい
武士は先祖伝来の所領の要地に館
を構え、周囲には灌漑・防御用の堀や塀をめぐらせました。
館の建つ屋敷地や周辺の田地は税が免除されました。
このような館周辺の免税の田地を佃と呼びます。
武士は、これら田地を自身の隷属民下人や、所領内の農民に耕作させました。
武士の館周辺の地形図
(埼玉県飯能市の中山館復元図)
一部の武士の増長
一部の武士は、身分(御家人)・職権(地頭)を盾に取り、現地への支配力を強めて、次第に荘園領主への納税を怠るようになりました。
荘園領主は、幕府に訴えて判決(裁許)を得るか、武士と和解(和与)するかで対処しました。
従来の関係
例えば、上図の関係で地頭が納税を怠ったら、荘園領主は裁許あるいは和与により、下図のような対応をとりました。
このような対応を地頭請所と呼びます。
地頭請所
しかし、地頭請所でもなお地頭が納税を怠ったら、荘園領主は最終的に下図のような対応をとりました。
このような対応を下地中分と呼びます。
下地中分
武士の血縁
平安時代以降は、一族のことを一門とも呼び、一門を統率する代表者の地位を惣領(家督)と呼びました。
伊勢平氏の系図(一部省略)
上図は伊勢平氏の系図です。
惣領は実線(赤線)で結ばれた血縁で継承され、この血縁を宗(本家)と呼びます。
一方、惣領を継承しなかった破線(緑線)で結ばれた血脈を分家と呼び、その血縁の者たちを庶子と呼びました。
庶子は様々な場面で惣領に従いました。
戦時:惣領が指揮官となり、一門は団結して戦闘
平時:惣領が祖先の祭りや一門の氏神の祭祀を執行
血縁的関係を重視した武士社会のこの結合形態を惣領制と呼びます。
武士の財産相続
分割相続
鎌倉時代前・中期、親の財産(土地)は上図のように、全ての子女に分配される分割相続が原則でした。
当時女性の地位は高く、男性と同じく財産の分配にあずかり、御家人や地頭になる例も存在
分割相続の繰り返しは土地を細分化し、武士の窮乏の原因となりました。
相続人の死後に惣領に返すことを約束した土地一期分
も登場し、女性は相続を減らされたり一期分とされたりし、その地位は低下していきました。
鎌倉時代後期、次期惣領が財産全てを相続する単独相続が、一般的となり、次第に惣領制は解体しました。
武芸と武勇
武士は地位を守るために武芸を習得する必要がありました。
当時の戦いでは、馬が決定的な役割を果たしました。
馬上の弓術を練る武芸が重要視され、下図の武芸3つを騎射三物と総称します。
『男衾三郎絵巻』は、当時の武芸や武士の暮らしを詳細に記録
『男衾三郎絵巻』
武士には「兵の道」「弓馬の道)」と呼ばれる道徳があり、武勇、主人への献身、一門の誉れなどが重視され、後の武士道の起源となりました。
史料
阿弖河荘ー荘民の訴状
原文
一ヲンサイモクノコト、アルイワチトウノキヤウシヤウ、アルイワケカフトマウシ、カクノコトクノ人
フヲ、チトフノカタエセメツカワレ候ヘハ、ヲマヒマ候ワス候…
現代語訳
(荘園領主様への)材木の納入が遅れている件ですが、この荘園の地頭が「京上(京都大番役
)だ」「下向だ」と言って私たち荘民を人夫(労働)に酷使されますので、(材木を用意する)暇がありません…
解説
阿弖河荘
は、現在の和歌山県北西部の荘園です。1275年、この荘園の百姓(荘民)が、地頭の横暴さを訴えました。百姓の訴えた文章の続きには、地頭が百姓たちへの脅しに「(お前たちの妻の)ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワホタシヲウチテ、サエナマン」と言ったことが載っています。現代語訳すれば、「耳を切り、鼻をそぎ落とし、髪を切って尼にして、縄で縛っていためつける」となるでしょうか。訴えの全文は長く、たどたどしい片仮名書きで、正直読みにくいものです。しかし、地頭の横暴さとともに、訴えの必死さも伝わってきます。
地頭
解説
開発領主は、自らの開墾地に国司が重税をかけることを嫌い、都に住む高位の公家(国司よりも高位)に開墾地を譲りました。国司は、この土地に重税をかすことができなくなります。ところで、開発領主は何も見返りを考えずに土地を譲ってしまったのでしょうか。違います。土地を譲った相手(以降、荘園領主と表記)は、都に住むために現地での土地経営ができません。そこで、開発領主は、現地での土地経営にあたる役職(総称:荘官)に任じてもらい、現地で実質的な土地支配をおこなうのです。なお、この役職は一応「土地経営権を貸与されている」状態です。借りているから、手数料が掛かるわけです。この手数料が、いわゆる「年貢」に相当します。
さて、なかなか賢い手段で得た荘園という役職ですが、非常に不安定な役職でもありました。荘園領主が政敵に敗れ落ちぶれると、たちまち罷免されてしまいます。また、荘園領主に逆らっても罷免されてしまいます。何とかして土地経営を続けたい。どの荘園領主もそう考えました。
そのために、開発領主(兼荘官)は、将軍に仕える御家人になりました。御家人になって、荘官と全く同じ機能をもつ役職(土地経営にあたる役職)に任じてもらうのです。この役職が、「地頭」です。これによって、仮に荘官を罷免されても、地頭という役職でもって、土地経営を続けられたのです。
ただし、地頭も罷免される場合がありました。荘園領主への年貢納入を怠った場合です。勧告を受けてもなお未納入の場合、地頭を罷免されてしまうのです。ところが、地頭を罷免できない場合もありました。土地経営を20年以上続けた場合、地頭を罷免することができないのです。矛盾するような内容ですが、どちらも「御成敗式目」に記載されています。
地頭請
解説
以下の説明は、上記の「地頭」の説明を踏まえた内容となっています。確認できたでしょうか。「御成敗式目」に記載された「地頭を罷免できる場合」「罷免できない場合」という矛盾点を利用し、地頭(兼荘官)は次第に荘園領主への年貢納入を怠り始めました。今までは罷免を怖れてできなかったのですが、土地経営を20年間続ければ、もう怖くありません。悪天候など様々な理由をつけて、年貢納入を怠りました。
地頭の横暴に困った荘園領主は、鎌倉幕府に訴えるか、あるいは地頭と和解の道を探しました。結果、従来は荘園領主が「土地経営権を貸与」していたに過ぎなかったのですが、一層地頭(兼荘官)に歩み寄り、「土地経営権を譲渡」したのです。その代わり、一定の年貢は必ず納めるように約束させたのです。これが「地頭請」です。かなりの妥協案を、荘園領主が提示したわけです。
下地中分
解説
以下の説明は、上記の「地頭」「地頭請」の説明を踏まえた内容となっています。確認できたでしょうか。「地頭請」というかなりの妥協案を、荘園領主が提示しても、なお年貢納入を怠る地頭がいました。荘園領主は、再び鎌倉幕府に訴えるか、あるいは地頭と和解の道を探しました。これによって提示されるのが「土地を半分に分けて、それぞれ所有しましょう」という妥協案です。ここに至って、「荘園領主ー荘官(兼地頭)」という上下関係は存在しなくなります。互いに土地所有者(領主)として対等になるわけです。荘園領主は、心機一転し、自分の言うことを聞く者を「荘官」にすればよいのです。土地を分けて、互いに土地所有者(領主)として独立していく妥協案が、「下地中分」です。