概要
承久の乱後、3代執権の北条泰時は、合議で最高政務・裁判をおこなう体制を整えました。また、武家最初の体系的法典である御成敗式目を制定しました。次第に執権政治は確立されていき、幕府の政治は新しい段階に入りました。しかし、北条氏は5代執権の頃に独裁的な性格を強め、合議も北条氏出身の者のみでおこなわれていきました。
執権政治の発展
合議制の確立
承久の乱後まもなく、北条泰時
が3代執権を引継ぎました。
御家人の支持獲得には、独裁的でない公平な合議による裁断が必要です。
その合議制のために、次の2つを設置し、ともに最高政務・裁判にあたりました。
- 連署
執権の補佐役(もう1人の執権)
- 評定衆
11名の有力御家人
最高政務・裁判にあたる執権・連署・評定衆の会議を評定と呼称
北条泰時
裁判基準の成文化
幕府成立以来、御家人同士の紛争や、御家人と荘園領主の紛争が相次ぎました。
土地に問題はつきもの
1232年、
御成敗式目(
貞永式目)制定
北条泰時が作らせた最初の武家法典
後の武家法にも大きな影響
源頼朝以来の「先例」、武士の慣習・道徳である「道理」に基づき、地頭・守護の任務と権限や、紛争を裁く基準を成文化
弟北条重時へ宛てた手紙のなかで、御成敗式目の内容のことや、御成敗式目が律令や貴族社会の規則である公家法を否定しないと説明
全51カ条で、後に追加した条文を式目追加と呼称
当時、貴族社会の規則公家法や、荘園領主が荘園支配のために定めた規則本所法がありました。
御成敗式目は律令・公家法・本所法を否定せず、幕府の支配領域にのみ適用されました。
幕府の支配が全国に拡大するにつれ、公平さを重視する御成敗式目の影響は広がり、効力をもつ範囲が拡大しました。
神による判決―起請文
幕府の裁判には、実は宗教的な要素が多かったのです。証文(証拠となる文書)がなく、証人の証言もないときには、当事者の主張の当否を神が裁くよりほかにありませんでした。
当事者は自分の主張を神前に誓う「起請文
」を書き、神社に7日間こもります。その間に鼻血を出す・病気になる・親類に不幸がある・カラスやネズミに尿をかけられる・飲食の時にむせる等々の異常がおこれば、虚偽が神に見破られたのだとします(神判)。このように中世の裁判では神に頼ってでも判決を出さねばなりませんでした。
執権政治の盤石化
5代執権の登場
5代執権である、北条泰時の孫北条時頼は以下の政策を実施して、北条氏の執権政治を強化し、次第に独裁的な性格を強めていきました。
北条時頼
迅速で公正な裁判
訴訟が増加し、評定による裁判が滞っていました。
北条時頼は、裁判の迅速化とそれによる御家人の信頼獲得を考えました。
1249年、次の3段階を踏むことで、迅速で公正な裁判を確立しました。
- 定員4~5人の引付衆を任命
- 引付衆で構成する会議引付が判決原案を評定に提出
- 判決原案にほぼ従い、評定が最終的な裁断
以前の裁判
引付設置後の裁判
対北条氏の勢力消滅
1226年、藤原頼経が4代将軍に就任しました。
頼経は在職の間に一部の御家人(三浦氏など)と親近な関係をもっていきました。
それら一部の御家人は、北条氏が御家人を統制する上での障害になりました。
北条時頼は、頼経の子藤原頼嗣
を5代将軍に就任させ、後に頼経を京に送還しました。
頼経を解任することで将軍と一部の御家人の親近な関係を消滅
藤原頼経
1247年、
宝治合戦
時頼が三浦泰村を滅ぼした戦い
幕府内において、北条氏に対抗できる最後の勢力が消滅しました。
朝廷との密接な関係
北条時頼は、朝廷に政治の刷新と制度の改革を求めました。
朝廷に、幕府が認めた公家から選抜した評定衆を置かせ、評定衆で構成する評定を院政の最高議決機関とさせました。
1252年、時頼は5代将軍の藤原頼嗣を廃し、後嵯峨上皇の子宗尊親王を6代将軍に迎えました。
幕府は朝廷の内部に深く影響力を持つようになりました。
幕府は4代将軍に皇族を求めたが、後鳥羽上皇はこれを拒否
後嵯峨は幕府との協調を臨んで承諾し、6代将軍で実現
後嵯峨上皇