北条氏の台頭

表記について
概要
源頼朝の急死後、有力御家人による主導権争いが起きました。やがて台頭した北条氏は、侍所・政所の長官を兼ねる地位「執権」を確立しました。一方、幕府の内紛に乗じて後鳥羽上皇が着々と幕府と対決する準備を整えていました。3代将軍源実朝が暗殺されると、後鳥羽はこれを好機として承久の乱に臨みました。

北条氏と執権

合議の開始

幕府の初期の体制は、源頼朝の独裁による部分が大きく存在しました。
頼朝の死後、幕府の体制は大きな転換を迎えました。
頼朝の長男源頼家が2代将軍に就任しました。
頼家の先走った考えは、御家人から反発を受けました。
頼家の権限は制限され、有力御家人13名の合議で最高政務・裁判がなされるようになりました。

源頼家

執権政治の開始

幕府創設以来の有力御家人が病没し、北条時政が勢力を伸ばしました。
1203年、時政は源頼家の後見の比企能員ひきよしかず を討ち、次いで頼家を幽閉した後に暗殺しました。
時政は源頼朝の次男実朝さねとも を3代将軍に立て、政所まんどころ別当に就任しました。
北条時政
伊豆国の在庁官人で、頼朝の妻北条政子の父
後見
後ろだてとして指導・監督する人

北条時政
1205年、時政の子北条義時が政所別当の職を継ぎました。
1213年、和田合戦
義時が侍所別当の職にあった和田義盛を滅ぼした事件
義時は侍所・政所の別当を兼ねる地位執権を確立し、以後その地位を北条氏一族で世襲していきました。
ほぼ無力な将軍を立て、北条氏が幕府権力を握る執権政治が始まりました。
執権
初代執権は北条時政


承久の乱

勢力挽回の計画

幕府の内紛の一方で、後鳥羽上皇は院政をおこないながら、朝廷を次第に立て直していきました。
後鳥羽上皇は、警護組織である北面の武士に加え、新たに西面の武士を設けて院の軍事力を増強しました。
後鳥羽は幕府と対決する態勢を整えていきました。
後鳥羽
自ら刀剣を作り、菊の紋を彫刻(天皇家の家紋の由来!?)
西面の武士
上皇の住居「院」の西面で勤務した武士
宮中で勤務した「滝口の武士(滝口の武者)」と、院で勤務した「北面の武士」「西面の武士」の区別に注意

後鳥羽上皇

菊の御紋

将軍暗殺―親ノカタキハカク討ツゾ

1219年、3代将軍源実朝が源頼家の遺児公暁くぎょうに暗殺されました。
追われた公暁も死に、源頼朝の直系の子孫は断絶してしまいました。
幕府は、頼朝の遠縁にあたる幼少の藤原頼経よりつね を将軍候補に迎えました。
実朝の暗殺後、将軍の仕事は北条政子(別称:尼将軍)が代行
当初、幕府は将軍候補に皇族を望んだが、後鳥羽が拒否
1226年、成長して4代将軍に就任した頼経を摂家将軍と呼称

公暁の隠れ銀杏
(2010年に倒木)

藤原頼経
多感な将軍―源実朝
幕府が内紛に荒れるなか、源実朝は多感な青年として育ち、京の文化に心の拠り所を求めました。妻に後鳥羽上皇の姻戚にあたる京育ちの女を選び、藤原定家に和歌を習って自ら『金槐きんかい 和歌集』を編纂するほどでした。
山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
上記は後鳥羽に忠誠を誓う実朝の和歌です。朝廷に対して友好的な将軍の姿は、北条氏たち御家人にとって決して好ましいものではありませんでした。

上皇の挙兵

1221年、承久の乱
後鳥羽上皇が将軍暗殺を好機とし、北条義時追討の兵を挙げた事件
挙兵の際に、上皇は北条氏に反発する御家人を誘致しましたが、尼将軍北条政子が御家人に源頼朝の「御恩」を訴え、大多数は北条氏のもとに結集
義時の子北条泰時と義時の弟北条時房が京に攻め入り、幕府の勝利で決着
後鳥羽上皇(隠岐おきへ)・土御門 つちみかど 上皇順徳天皇の3人の上皇が流刑に処され、仲恭 ちゅうきょう 天皇が廃されました。
後鳥羽の挙兵の動きに、摂関家出身で天台座主ざす慈円じえんは『愚管抄ぐかんしょう』で忠告

北条政子

乱後の動向

承久の乱で勝利した幕府は、次の2つに取り組みました。
任命された地頭は、前にいた荘官や郡司の田地からの取り分を引き継ぎました。
取り分の少ない場合には、新補率法しんぽりっぽう を適用して不足分を補いました。
新補率法の適用で取り分を保障された地頭を、新補地頭と呼びます。
新補地頭の対義語…適用されなかった従来の地頭を本補地頭と呼称
一国ごとに、田地の面積や荘園領主名・地頭名を記した台帳大田文を作成
①②を通じて幕府の力が西国の荘園・公領にも及び、幕府が朝廷より優位に立ちました。
朝廷は以後も院政を続けましたが、幕府の監視下で政治や皇位の継承に干渉をうけました。

新補率法



史料

北条政子の演説(『吾妻鏡』)

原文

十九日壬寅、…二品、家人等を招き、秋田城介景盛を以て示し含めて曰く、「皆心を一にして奉るべし。是れ最後の詞なり。故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩、既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今、逆臣のそしりを依りて非義の綸旨を下さる。

現代語訳

1221年5月19日、北条政子は御家人たちをすだれの下に招き、安達景盛に言わせた。「皆心を一つにして私の言葉を聞きなさい。最後の言葉です。亡き源頼朝が、平氏を滅ぼし鎌倉幕府を開いて以来、あなたがた御家人が頼朝から官位・俸禄を頂戴した御恩は、山より高く、海よりも深い。だから奉公の志が浅いはずありません。今、朝廷に背く者として非難され、北条義時追討の宣旨が出ました。

解説

後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を崩す機会をうかがい、「西面の武士」を新設したり、3代将軍源実朝に接近したりしました。1219年、2代将軍の源頼家の遺児公暁が実朝を暗殺しました。頼朝の直系の子孫が断絶したため、幕府は次期将軍に後鳥羽の子を迎えようとしますが、拒否されてしまいます。これにより幕府・朝廷の関係が急速に冷えると、遂に後鳥羽は鎌倉幕府の打破に臨みました。当時、頼朝の妻北条政子と執権北条義時が、鎌倉幕府をまとめていました。後鳥羽は、この義時を追討することで、幕府の崩壊に繋げようとしたのです。

では、御家人たちはどのように後鳥羽の挙兵に反応したか。御家人たちは、幕府側につくべきか朝廷側につくべきか迷いました。御家人たちが朝廷側につけば、幕府に勝ち目はありません。北条政子は、「亡き頼朝がどれだけ御家人に恩恵を与えたか」を強調し、御家人の情に訴え、幕府側に引き留めようとしたのです。

ポイント


新補地頭

原文

去去年兵乱以後、諸国庄園郷保に補せらるる所の地頭、沙汰の条条
一、得分のこと
右、宣旨の状の如くんば、仮令、田畠各拾一町の内、十町は領家国司の分、一丁は地頭の分、広博狭小を嫌はず、此の率法を以て免給するの上、加徴は段別に五升を充ておこなはるべしと云云。〔中略〕
一、山野河海の事
右、領家国司の方、地頭分、折中の法を以て、各半分の沙汰を致すべし。

現代語訳

一昨年の承久の乱以後、諸国の庄園・公領に配置された地頭への指示
一、収入のこと
宣旨によれば、例えば、田畑それぞれ11町のうち、10町は荘園領主・国司の分、1町は地頭の分とし、その土地の広い・狭いに関わらず、この割合で地頭に土地を与え、加徴米は1段につき5升を与えよとのことである。
一、山野河海から得られる収益について
田畑以外の山野河海からの収益については、領家・国司と地頭が折半せよ。

解説

承久の乱後、朝廷側の武士は、自身が荘官を務める荘園を追われ、別の者が荘官として新たに着任しました。公領も同様で、朝廷側の武士は自信が郷司・保司を務める公領を追われ、別の者が郷司・保司として新たに着任しました。鎌倉幕府は、着任した者を地頭という職にも任命しました。地頭の役割は、荘官や郷司・保司と変わりませんが、職を2つことに意味があります。例えば、A氏が荘園領主に失礼を働き、荘官を罷免されても、A氏は地頭という職で荘園に居座り続けることができます。やりたい放題ですね。だから地頭の年貢滞納などが問題になるわけですが・・・。

さて、本題です。着任した地頭は、前任者の収入を受け継ぐことになりました。ところが、良質な荘園の地頭になったA氏と劣悪な荘園の地頭になったB氏で、収入が異なってしまったのです。これでは不公平です。そこで「新補率法」を定め、収入の底上げを図ったのです。

底上げ方法①として、荘園(あるいは公領)の11町につき1町は、そこからの収入を全て地頭のものにしてよいとしました。つまり11町につき1町の免田を認めました。22町の荘園であれば、2町が免田です。底上げ方法②として、荘園(あるいは公領)の1段ごとに5升の米を地頭の収入に加えさせました。この加えた米を「加徴米」と呼びます。底上げ方法③として、荘園内(あるいは公領内)の自然の恵み(山の幸・海の幸など)を、荘園領主・国司と地頭で山分けさせました。底上げ方法①~③で収入を何とか上昇させた地頭を、「新補地頭」というわけです。

ポイント